早めに劇場に入って、美術記録用に空舞台(役者がいない状態)の写真を撮る時間をもらう。
拾ってきた流木とスチールホイールもダメ押しで飾る。
美術記録を撮っていると、出演者もそれぞれに携帯画像で撮ったり、舞台上を動きながら動画を撮ったりした。
舞台上を動きながら撮りたくなる装置ではある。
実際につくることはなかったが、プラン段階では両脇を取り囲むような客席も配置してみたし、円を取り囲むサーカスの舞台のような空間はイメージしていた。
出演者も観客といっしょに、円形舞台の中を覗いているような感覚になるポイントが色々なところにある。
微妙な傾斜の感覚は実際の空間・体感でないと、静止画像では記録出来ないが、動画なら若干伝わるかもしれない。
撮るには撮ったが、空舞台で美術記録を撮影しておくのにも、少し飽きてきた気がした。
やはり本当のところは記録しきれないし、役者が立ってこそだし。
ゲネも撮ってはみてるが、やはり完成形は観客席が埋まって初めてのものだ。
終演後、怒濤のバラし(撤去作業)に。退館時間まで2時間半。
劇場さん側の1時間くらいオーバーするのではないか?という予想からはマいて、30分オーバーくらいですべて完了。
バラし終盤はトラックで積み込んでいたのでわからないが、劇場から出る分にはもう少し早く出ていたかもしれない。
だいたいの物が搬出されて、なにもなくなってからチェックとか細々した時間がかかるものだから。
しかし、劇場が「なにもない空間」に戻るから、というタイトルではない。
打ち上げで、榊原さんと話していて「いつも床(の高さ)を上げますね」と指摘される。
実際、榊原さんと組んだ過去の二公演ともそうだった。
その過去のケースでは、座り芝居を見やすくすることや、日本家屋として機能させることが目的であったが、今回のように傾斜をつけたり、照明を床下に仕込んだりするために好んで使うのは確かだ。
日本人の感覚で、舞台空間の基本として「能舞台」を常に意識していることもある。
しかし、もっとシンプルでミニマムに「床」というものを舞台空間の基本要素として考えている。
「床」材にこだわることも多いし、「床」の素材が決まるとプラン全体が見えてくることも多い。
たとえパンチカーペットや、ベニヤというもっとも一般的な素材にする場合でも、一見安易に何もしない場合でも、積極的にそれを選ぶ理由を考えるようにしている。
なぜなら、幕や壁がなくても、役者が何にも触ったり座ったり、つまり装置と関わることをしなくても、役者がそこに立つ以上、最低限何らかの「床」(それは地面かもしれないし、剥き出しの平台かもしれない)が接点を持って、そこにあるから。
だから、もっともディテールやリアリティについて考える必要があるし、たとえ観客に見えなくても役者に作用することを考えなくてはいけない。
最低限何があれば、演劇(あるいは舞台芸術)が成立する空間がつくれるかというと、舞台上(演じる側が立つところ)と客席(観る側がいるところ)があるということだろう。
それは何かを敷くことだったり、一本の線だったりするかもしれない。
「床」に属することが多いものだと思う。
だから、舞台美術プランとしては、まず客席を入れた平面図を欠くことはない。
「床」がなんであるか考えない、なんてことはない。
こんなことを話したら、榊原さんがピーター・ブルックの本(「なにもない空間」であろう)にも近いことが述べられていたと、応えた。
「なにもない空間」を知る前に、多分こういう指向にはなっていたと思うが。
もともと、舞台芸術というか芸事の入口を「落語」として育ったことの影響はある。
舞台美術を続けるうち、自分の得意や嗜好としては、つくる物を出来るだけ減らして、その少ない物のクオリティを上げたいという考え方に至った。
なんであれ自分のしていることに対して、突き詰めて「最低限なにがあれば可能か?最低限どうだったら成立するか?徹底したらどうなるのか?」と、極論まで考えてみる思考実験は意味があると思う。
考えた結果、極論のところでそれをやるにしろ、やらないにしろ。
「演劇」でそれを考えると、ひとつはどれだけ観客の想像力を利用するか信用するか、という話になると思う。それが、日本の現代演劇における五反田団やチェルフィッチュの表現には、その結論がある。
もちろん、想像に任せるのでなく、現物がそこにある強さも、演劇の強力な武器を突き詰めた一つの結論だろう。テレビや映画といった「まさに現物がそこにある」かのように伝える映像の出現によって、首位を奪われた部分がある現在でも。
だから、「なにもない空間」という話とは反対だが、あるはずない物がまるで本物のようにそこに建っている舞台装置の威力というものもまた大きい。
今回の連続模型のプランにおいては、電柱がそれだったと思う。