舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。


今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。

2008年あたりは、割と色々書いてます。






























地下鉄に乗って

連続模型の打合せ、および初稽古見。

稽古場に行く前に、本屋で今回の参考に映画「続・三丁目の夕日」のムック本と、先日参考に観た映画「地下鉄に乗って」の原作を買う。

稽古場では、残りわずかに上がってなかった台本があがっており、昼夜の稽古のうちに割と多くのシーンを観ることが出来たので、稽古後の打合せに向けて、全貌が見えてよかった。
稽古見つつ、さらに参考資料のターゲットを広げてネットで調べる。


稽古後の打合せでは、先日の打合せをフィードバックしたイメージ画を美術監督の河野さんが描いてきており、こちらは参考資料と稽古を見ながらざっくりと引いたラフ図面を提示してみる。それに対して演出、照明からもアイデアが出る。
イメージ画や参考資料に対するそれぞれの反応の中に「思っていた通り」に合致する部分を確認し、意外なアイデアを発見していく。

今も電柱はあるのに、電柱というと「昭和」の、それも30年代〜40年代の代名詞的イメージになるのは、街並みが低かったからだという事を、打合せの中、イメージ画と資料画像から発見した。
今回、キーになりそうな、昭和の風景、電柱、コーラ、などに対して一同が持っているイメージに不思議なくらい共通な部分があることも確認できた。

次は自分が、実際に使える素材や予算・施工法や作業時間を考慮して、現実的なプラン化・図面化する。


帰路、浅田次郎「地下鉄に乗って」を面白く読み進み、そのまま読了してしまう。
映画を先に観ているので、物語を追わずに文章を愉しむように流して読める。
文章表現が味わい深い。
これを映像で表現するのは、なかなか難しいだろう。

実は、映画を先に観て、賛否に分かれる感想もネットで散見し、果たしてどういう原作をどう考えて映画化したのか?
その映像化するための発想を、逆から辿ることで知りたくてもあって読んだ。
ちょっとした美術の勉強。

地下鉄・永田町駅が異界への入り口になっているという空間の使い方の上手さは、原作・映画ともに共通することだ。
原作においては、まずその場所に着目したことが、大きい。
映像としては、だれもいない地下鉄ホームの空気感と、役者の肉体というものが大きい。
物語への期待感がふくらませ、非現実的な出来事に説得力を持たせている。
こういう空間を設定するだけで、きっと面白い芝居の何本かも生まれる気がする。

ネット上の感想を見ると、セット美術への批判が「テーマパークのようで、安っぽい、偽物っぽい」というような形容で散見されたが、これは単純に装置が悪いということではないと思った。
なぜ、テーマパーク的偽物に見えてしまうか?ということは、今回の連続模型のプランでも考えるべきポイントだ。
限りなく実物っぽいのに、絶対に実物ではないことを知って見ているということは、大きいかもしれない。
そして、イメージとして過去のビジュアルは往々にして、リアルとは別に、あるトーンを帯びていたり、荒れた画質のフィルムであったりバイアスがかかっている。

映画自体は、親子関係をメインに、そのクライマックスシーンを描くために、正面切って虚構を据えた、むしろ演劇的な作品になっていたと思うので、実は偽物に見えることとかは重大な欠点ではないと思った。
虚構と気づかせないでいてほしい観客には、そこが引っかかったのではないかとは思う。

映画のほうが、親子関係に比重を置いていて、虚構を前提とした感動物語になっているが、これをよしとするかどうかは個人の好みだろう。
予告編でも、物語の展開を予測させるようなカットを流していたし、予測した感動を楽しむべき映画だったのだと思う。原作にも共通するが、SFとして観ると、やや都合が良すぎるところや、理由の説明がないところもあるのだろうが、そこは突っ込むべきところではないだろう。

原作のほうは、あくまで小説というものの性質を生かして、現代の説話として説得力を持っていると思った。