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2008年あたりは、割と色々書いてます。






























2008年5月25日

眠れない夜

午前中、工房(六尺堂)で月一の使用者ミーティング。
工房では、翌月の使用予定者が一同に集まって、使用予定や荷出し・荷下ろしの調整をしたり、目下実使用上発生している問題を話し合ったりするミーティングを毎月行っている。
6月の使用予定はまだはっきりしていないが、可能性はあるので一応参加。
工房運営の実務的なことも議題に出るし。

ミーティング後、王子に移動。

快快ジンジャーに乗って」@王子小劇場 千秋楽を観る。満席でギャラリーより。


長丁場になることを危惧されていたバラし(撤去・撤収作業)は、屈強な手伝いが何人も投入されて、スムーズに終わる。

翌朝、劇場開けから仕込み監督に入るので打上げには顔を出さず帰宅。
しかし、帰ってネットで色々、とかDVD観たりとかしてたら、まったく眠れなくなってしまった。
眠ると起きられないと判断。
これなら、打上げに参加していたらよかった。

【 快快「ジンジャーに乗って」】
例によって、かわひ_さんの「休むに似たり」にあらすじや解説がくわしい。
そして、他にも色々興味深い指摘のある感想がネット上に散見される。

http://cassette-conte.air-nifty.com/blog/2008/05/post_01e8.html

http://blog.goo.ne.jp/kmr-sato/e/af438d9d8477be13f3597b463409e0ae
http://assaito.blogzine.jp/assaito/2008/05/post_623b.html
http://homepage1.nifty.com/mneko/play/HA/20080518s.htm
http://nt1chk.blogspot.com/2008/05/blog-post.html

これだけ色々な感想を引き出しているというだけでも、作品の力が確実にあるのを感じる。
すぐれた舞台芸術は、多様な感想や感覚を引き出すもので、そこに意味があるとも思う。
また、この団体がよい観客層を幅広く(関係者も含め)持ちつつあることもわかる。「面白かった」とほめるファンでなく、新たな視点の感想を得ることは、表現を成長させる。
演劇活動を続けるならば、今後も伸びる団体であるだろう。
(彼らの興味・指向は、演劇にしばられてないので、今後の活動が常に演劇あるいは舞台芸術の範疇のものになるとは限らないと思える)

この作品の感想としてサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」やチェルフィッチュを引き合いに出すのは、あまりにありふれているとは思うが、やはりそこを指摘しないわけにはいかないと思う。

繰り返す「永劫回帰」の日常と、その無意味(劇中冒頭では「無駄」をテーマにすると宣言している)の表現は「ゴドー〜」を横目に入れていると思う。演じることの不可能性から表現が出発していることも「ゴドー〜」冒頭の「Nothing to be done(「どうにもならん。」 / 「演じることはなにもない。」という意味もふくむという解釈もある)」を思わせる。
繰り返す二幕構成、今日が何曜日だったかもわからないという会話、ホームレス(「ゴドー〜」の主人公二人は浮浪者)、セグウェイから「降りる」と言いながら「降りない」(「ゴドー〜」の終幕は「行こう」と言いつつ、まったく動かないまま終わる。また自殺をほのめかせつつ、それは成就しない)など、他にもベケット的イメージに埋め尽くされている。
それは、自覚的にか無自覚的にかはわからないが。
多摩美術大学を出自として、恵まれた演劇や芸術の環境と人脈を持つ彼らなら、自覚的あるいは最低限教養的下地としてもっていたのではないかと思う。

ベケットとの類似性を指摘することで、この作品を低く評価する人もいるだろうが、それはあまり正しくないと思う。
むしろ、ここまで現代的に「ゴドー〜」を換骨奪胎した、名カバーとも言える作品はなかなか希有だろう。それだけで評価に値する。

「ゴドー〜」の演劇における意味とか、現在古典的価値を持っていることを考えると、「ゴドー〜」をそのまま再演することのみに意味があるとは思えない。
つねに時代に即した方法で提示していくことも、また古典への敬意だと思うし、「ゴドー〜」を再生するのには、ことさら時代性が重要だと思う。
斬新な方法で、同時代を的確に表現する可能性を見せたのが、初演当時の「ゴドー〜」だったのだと思うから。

快快「ジンジャーに乗って」の、自然体で舞台に立って観客とコミュニケーションし、セグウェイに乗るとか、劇場内に「うんてい」を組むとか、公演そのものを祝祭感をもって盛り上げ、観客を楽しませる数々のイベントを盛り込む彼らのエンターテイメント性は、こんなに形を変えているのに、場末の喜劇役者のように演じられたという初演の「ゴドー〜」に忠実でもある。

そして、オリジナルには忠実ながらも、アレンジのセンスが非常によい。
繰り返しの中に、チェルフィッチュを思わせる「不特定の演者が不特定の役を入れ替わる」あたり。
「人間はそれほど主体的に話さない」という日本の現代口語演劇のリアリティをおさえつつ、「個人」が入れ替え可能という現在の時代感覚を的確にとらえていると思う。
そしてその手法を、無限ループする会話で永劫回帰する日常の「無駄」を表現する、という明確な目的をもって使っている。
その点、「チェルフィッチュの真似であるだけ」ではないと思う。
本質をともなって自分のものにしていると思う。

そして、何より評価すべきは、これらのことを彼らがちょっと聞こえの悪い言い方をすると、多分「あまり考えこまずに」やってしまえている点だと思う。
彼らなりにはもちろん「考えこみ」悩んだ結果なのではあろうが、それは台本の上やキーボードを前に思考のタコツボにはまるような、世間一般の「考えこんで」いるのとは質が違うように思う。
体験的に、必然的に、この作品に辿り着いているように感じる。

同時代の空気を皮膚感覚みたいなものでつかみ、直感的に演劇史の文脈もおさえた最新の手法を(多分手探りで)見つけてしまう、圧倒的な運動神経がすばらしい。
関係者の言葉を借りて平たく言えば「計算とか力加減とかなくて、毎回真剣に力を出し切っている」結果だということだが、もちろんそれだけでない基本的な素養(教養とか新しい状況への嗅覚)あってのことだと思う。

小指値時代からの経歴を見ていて気づく。
彼のそういった表現に対する基礎体力は、本公演以外に番外公演やクラブイベントなどフットワークの軽い活動で踏む場数。そして各自がそれぞれなりの「作品」を持ち寄って、言葉だけでない多様なコミュニケーションによる集団創作で作品をつくっていること、によって鍛えられているのではないかと思う。

それだけの力を持っているだけに、彼らがつくり出す新しいものへは期待が大きい。
しかし、それだからこそ今回の作品には惜しい点もあった。
「安楽死」や「国会自爆テロ」というキーワードを出してみたところで、作品中で実行される気配もないそれは「ゴドー〜」で成就されない「自殺」に等しい。
彼らに期待するのは、永劫回帰する日常の無意味とか無駄という、ベケットが世に問うた「不条理」に対して、その先の答だ。

人に聞いたところ、井上ひさしの言葉では「作家は世界を描くことで、その作家なりの結論を出さなくてはならない」という。
「安楽死」か「国会自爆テロ」しか救われる道がない、という「結論」では、まだベケットより一歩も先に出ていないと思う。

バイタリティーのある彼らのことだから、永劫回帰する日常の先の「何か」を提示してほしいなあ、と思う。

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