今回の装置をデザイン・製作するに当たっては、現代彫刻などから発想しつつ、具体的な「何か」を模するのではなく、普遍的な「屋上」のイメージや空気感を出すオブジェになることを意図した。
具体的な対象があるとしたら、屋上の縁として、柵・金網として見立てて、境界線として機能すること。
椅子として、ベンチとして、灰皿として機能することだった。
しかし、単体で置かれたオブジェだけでは、すぐに屋上の「縁」や「柵 / 金網」に見えないくらいの抽象性を持たせる。
椅子は(どんな物でも座れさえすれば椅子になり得るのだが)今回の装置では一斗缶としての主張のほうが強いと思う。「柵 / 金網」のほうは、ややリアルな素材に近いが、「縁」のほうはあまり近くない。
しかし舞台に立った「柵 / 金網」は、枯れた植物のようにも見えた。
装置を置き、照明が入り、何度か芝居を当たるのを見ているうちに思い出した。
屋上をイメージした時、枯れた鉢植えとかを並べてみることは、プラン初期段階で考えてはいた。
すっかり忘れてはいても、帰って来るものなんだねえ、と照明の永さんと話す。
多分、忘れてそれでも辿り着くくらいのほうが、表現としては強いのだと思う。
多様なイメージが「思考 / 試行」を重ね、凝縮されて重なったほうが、豊かだと思う。
昼のゲネでは、ラスト窓を開けるシーンでマチネ公演のためのリハーサルが出来た。
言うまでもなく、昨日の夜バージョンとは空気感も光も圧倒的に異なる。
キャストも一部ダブルキャストだが、この終幕における空気感の違いはさらに大きく作品の印象を変える。
夜か昼かの違いだけで、台詞やアクションはほぼ変わらないが、違うストーリーに仕上がってると言えるかもしれない。
窓から見える光景も、座る席によって微妙に変わる。
天気や音も各回によって変わるだろう。
終幕に舞台奥を開放したり、空気や音、風景から事件まで現実を取り込むのは、日本では60年代以降の野外劇・実験演劇などが得意とする演出手法としてポピュラーだと思う。
演出の林田さんは「小ちゃいニナガワ」と言った。
しかし冷静に考えると、ギリシャ時代の円形劇場から、半野外だったというシェイクスピア時代、日本では自然光も照明にしていた能・歌舞伎など、演劇史の大半はそういったコントロールし得ない要素も演出の一部として相手してきたはず。
設備が整った劇場で、人工照明や音響機材が発達した現在の状況のほうが、かつてない特殊な状況だと言える。
「カーテンコール」と終演の「暗転」をどうするかは、当初から演出判断を迫られる部分であったが、実際の場所と光で試した結果でも、もともとのプランどおりシンプルにいくことで落ち着いた。
余裕をもって、無事初日も開き、五反田の「土間土間」にて初日乾杯。