舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。


今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。

2008年あたりは、割と色々書いてます。






























ウソ日記

トリガーラインの11月公演の参考に藤原伊織テロリストのパラソル」読む。読了。
ラストの「実は」的要素、説明過多は気になるが、謎解きに興味が強くひかれ、アラは気にせず読み進んでしまう勢いはなかなか。

仲間うちの舞台美術家の装置製作手伝いで、午前から工房(六尺堂)で作業する。
6×6アゲ(6尺=1818mm ×6尺サイズ、三角形の)平台、アール(曲面)パネル、木足とか作る。

夜、クロムモリブデン「血が出て幸せ」観劇。
作者と、作者が表現するものとのギャップについて考える。
今まで見て来たクロムモリブデンに比べると、ラストが堅いところでまとまった感があるのは物足りなくも感じる。

登場人物がウェブ上で書いている「ウソ日記/マジ日記」というモチーフは現代的で鋭い切り口と思う。
ブログを書いているすべての人を観客としてターゲットにし、胸に突き刺さってほしい意図があったという。
それは、かなり成功するのだろう、と思う。

しかし、他人に公開することを前提に書かれたものが、あるフィクションを含むのはもちろんのこと。
それが、だれにも見せないものであったとしても、人が何かを「表現」するときに、いくらかのフィクションが入るのは自明であるとも思う。

脳は自分に対してもウソをつく。
自分に対して記憶のねつ造もする。
日記として事実に「編集」を加えることで、本当にあったことにもフィクションの要素が入り込む。

あらゆる「表現」という行為は、ある意図をもって行われる。
意図をもって行われる行為には、もちろん何らかの作為が入る。
作為は事実をフィクション化する。
ドキュメンタリー映画の森達也監督が、完全に作者の意図を排除したドキュメンタリーなど存在し得ないというようなことを書いているのを読んだことがある。
世のドキュメンタリーは何であれ、何かそれを伝える意思を持っている。
完全なノンフィクションなど存在しない。

自然科学の分野で、観測者自身の影響をまったく排除して観察することは不可能だという常識があるらしい。
人間は自分自身を含むものを完全に正確に語ることは不可能だともいう。
だから、自分自身を語る日記を完全に正確に、ウソなく語ることも原理的に不可能だろう。

だから、すべての日記が「ウソ日記」になるのは、自明のことなのだと思う。
そもそも日記文学の発祥「土佐日記」にしたところで、男が女というキャラクタ−を演じるというフィクションの構図から始まっている。
人間は「自分」に対しても「自分」を演じないと、「自分」のことを書けないのだと思う。
書かないまでも、自分にウソをつかないのは意外に難しい。

こういったことは、自分にとってかなり当たり前になっていた。
それは、写真というものの経歴が大きいのだと思う。
写真は、どんなに自然に無意識に日常を撮ったつもりでも、撮影者の意図が現れる。意図は存在する。
だれに見せるということも考えずに撮ったとしても、どう見えるかを意図して撮影することになる。
だれにも見せないつもりの日記だって、後から見る未来の自分を意識せず書いているのかもしれないのと同様に。

撮影という行為は、その瞬間に「編集」を行う。
写真は、事実・瞬間を切り取ることが、ある意味ウソをついていることに自覚的にならざるを得ない。

しかし、これだけ「表現」について考察が可能な「ウソ日記/マジ日記」というモチーフに着眼した「血が出て幸せ」はやはり着眼点が鋭かったと思う。

表現・創作に関わっている知り合いのブログでも、同様の感慨を述べているのを見たし、先だってrest-N「閃光」の私小説的劇作(フィクション/ノンフィクションの虚実)に対する過剰とも思える賛否の反響を見ても、自分が自明と思っている以上に、多くの人にとって意外性や訴求力のあることなのだろうと感じた。

同時に、表現・創作に日常関わらない人でも、ブログという文化が広がることで「ウソ日記/マジ日記」のような「表現」の本質に意識的になっているのなら、これは表現・創作環境におけるリテラシーとして歓迎すべき状況だとも思う。