こういう事態を考えてなかったので、他に近場のコインランドリーがあるか、実はまったくチェックしていなかった。
しかし、調べてみるとこんな便利なものが。
「パソコン版コインランドリー刑事」
便利な時代になって、(趣味なのかもしれないが)親切な人がいるものだ。
こういうことがあると、とても「ウェブの良心」を信じたくなる。
午後から関西へ帰郷。
途中、京都で学生のころしていたバイト先の学校写真屋に寄る。
結果的に演劇にも縁のあるところで、自分が東京に来た後、関西の「劇団飛び道具」の藤原くんも永らく勤めていたところだ。
東京へ来てからも何度か顔は出していたのだが、しばらく間が開いていて、考えてみたらかなりのご無沙汰であった。
最近、写真がデジタル化していることや、関西での写真や印刷業界の状況について話が盛り上がる。
出版社が集中した東京ではなかなか感じられないが、関西ではプロラボの閉店など、フィルムからデジタルへの時代の変化が、より激しく見える形で起きているという。
また、印刷のダンピングの影響も。
演劇で言えば、だれでもデジカメで写真を撮り、パソコンでレイアウトして、安い印刷屋に出して、4色なんかのチラシを手軽に作ることが出来るようになった、という便利な傾向は、東京ならまだしも、それより仕事量の少ない地方では、業界に対する深刻なダンピング競争、仕事の枯渇につながっているようだ。
思えば学生のころから、ここでそんな話をすることで、写真や印刷やビジネスの色々なことを教わってきたものだ。
それは今も変わらない。
こうして久しぶりに会って話すと、あらたに知ること発見も多い。
かわりに、社長は東京の様子を聞きたがる。
どんな新しいビジネスや状況があるのか?京都にないものは何かないか?
しかし、東京の生活が日常になっていて、現在の関西の状況も、いくら地元で土地勘があるとはいえ、リアルタイムな生活レベルではわからなくなってしまっている。
東京で、どう当たり前なことが、他の地方でどう驚かれる目新しいことなのか?想像がつかない。
「東京は女性がみんなきれいであか抜けている」と言われたが、日常そんなことは意識しない。
ある種の感覚の麻痺だろうか?
意外に、東京から発生している「変化」については、東京に暮らす人間はビビットに感じることは出来ていないかもしれない。一歩引いてみたほうが、世間がよく見えることがあるかもしれない。
たとえば、演劇の世界からギリギリ離れたところからのほうが、演劇の世界の変化は見てとりやすいかもしれない。
しかし、日常の中で変化していくことに対する麻痺、というものには演劇とかのレベルでなく、もっと大きな危険も感じる。どこから見たら、変化に気がつけるのだろうか?