舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。


今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。

2008年あたりは、割と色々書いてます。






























温泉の怪物

連続模型「モテイトウ」@シアターシャインの打合せが、顔は合わさないものの、Googleグループ上でどんどん進んでいる。
今回、4人の作演出によるオムニバスということもあって、グループを活用しての進行を強く提案した。
提案した意図どおりの効果を発揮している。

同時に、作品イメージづくりも兼ねて提案した特設ブログのほうは、やや当初の意図よりは一般的な稽古場日記に傾いてしまった。
しかし、それでも一般的な公演の稽古場ブログよりは、作品イメージをかき立てる方向にはなっていると思う。

その「モテイトウ」特設ブログからの転載。
なので、このブログと文体がやや違う。

連続模型「モテイトウ」舞台美術(協力)で参加の松本です。
なんで「(協力)」なのかというと、「舞台美術」と称するほどの飾りこみをするのかどうかもスタート時点でわかってなかったから。

でも、多分、舞台美術と呼んで差し支えないくらいのものにはなる気がしてます。
目下、PLAN中。

先日、舞台装置をつくるという仕事してる関係から、ちょっとした大道具の仕事があったのですが、その帰りのこと。
あんまり疲れていたもので、途中下車して、24時間営業の風呂屋に行きました。

ちょっと、気になってたんですよね。
都内で、いつでも温泉気分が味わえる。

なかなか満喫できました。
もちろんサウナも薬湯もついてます。
薬湯は「これは絶対効くぜ」と思わせる説得力のある感触と匂いです。


もちろん、普通の風呂も申し分ない。
そんなリーズナブルな温泉気分に浸っている深夜。
客は正直少ないです。
自分と、多分初老のおじさん一人。
「多分」と言うのは、自分が極度の乱視入近視で、浴室内ではすべてがぼやけて見えるため。

そんな霞のかかった光景の中で、突如不思議な音が鳴りました。
「グググ、ギュ、ギュルルル〜」
動物園のオットセイが、鼻づまりの鼻腔をかき鳴らすような音です。
しかし、おじさんは平然としています。
かかり湯とか、サウナとかに夢中です。
そんなものかなあ、と思いつつ、気になります。
自分も、気になりつつも、特にこれといったリアクションはしてないので、おじさんもいっしょかもしれませんが。

深夜のことで、自分以外客がいなくて、貸し切り状態という贅沢も満喫できます。
気持ちよく鼻歌も歌えます。
そんな、ちょっと忘れていたころ、、、
「グググ、ギュ、ギュルルル〜」
と、また鳴ります。
「ゴっ、ゴっ、ゴっ、グごごご〜」
すすり上げるような音もします。
「ビョ〜、びゅるるるる」
上手く演奏出来てないバリトンサックスのような音もします。
いったい何が起きているのかまったくわかりません。
なんかすすり泣いているようにも聞こえます。


気にしていると、その音は浴室内の、「あるドア」の向こうから聞こえてくるようです。
気になって、そのドアに近づいて、張り紙を読んでみます。

「非常時以外、このドアを開かないでください」

非常時、って何?今は非常時なんだろうか?
ドアを開けるとどうなるのだろう?
非常時、って言っても、渋谷のガス爆発のような危急の時には、ドアを開けてどうなるもんでもないだろう、、、


風呂自体が、呻いているようなその音は、休んだり走ったり、繰り返されます。
途中、深夜4時、メンテナンスのおばちゃんがやってくるも、おばちゃんもその音がまったく当然のような様子。
意を決して、おばちゃんに何の音なのか聞いてみるも、おばちゃんも知らないという。
謎はとけないまま、風呂を出て仮眠室で仮眠しました。

そして、日が昇って、朝出る前に、朝風呂という贅沢をしようと入った、その時でした。
謎がちょっとだけ解けました。
しかし、お時間もよろしいようで、続きは、公演終わってからということで、、、、、

言葉でタタく

このブログのタイトルは「考える手」
それは自分のメールアドレス作るときに考えた言葉で、自分が舞台美術なんかをプランしたり、製作したりしている際のスタンスを表現してみたものだった。
スケッチでも素材でも、手を動かしながら考える。
行動することによって入ってくる情報・刺激があって、初めて何かつくることが、生み出すことが出来る気がする。
じっと考えているよりまずやってみる、ということだろうか。

しかし今回、連続模型番外公演「モテイトウ」では、それとは逆の印象がある進め方をしてみている。
舞台装置・大道具などを製作する、いわゆる大工仕事などを、演劇の業界用語では「タタキ」(名詞形)「タタく」(動詞形)などと言う。
大道具製作において、釘を打つことが多いあたりからきているのだろう。
ナグリ(舞台装置製作用、大道具さん用の金槌)で釘を「タタく」わけだ。

今回は、言ってみれば「言葉でタタく」プロセスをかなり踏んでいる。
大掛かりな、たくさんの舞台装置を「タタく」のではなく、Googleグループを活用して、事前のイメージの擦り合わせをより濃密に進めている。

もちろん、今回に限らず公演に際しては常に多くの打合せを重ねるし、直接のコミュニケーションによって得られる情報も大きい。
しかし、Googleグループ上のテキストによるコミュニケーションでは、面と向かった打合せだと話の流れで出しそびれたり忘れてしまうアイデアやイメージ、参考図書や映画など、多くの情報量をやりとり出来る。
話に出た参考画像を、同時にグループ上にアップしたり、参考リンクを張ったりも出来るのも便利だ。

顔は合わせていないのに、毎日数十分の打合せを重ねていっているような感覚でもある。
思いついたタイミングで、短いやりとりを回数重ねられるのが効果的だ。
毎日顔を合わせるような製作環境でなくても、こういったツールを使うことでそれが可能になる。

今回は、4本オムニバスで、それぞれ別個に作演出家がおり、並行して稽古が進むため、こういったツールでの打合せを強く推進したのだが、結果としては打合せに質的な変化が発生しているように思う。
多くのイメージや情報の集積をする感覚は、今回の公演コンセプトにも近いと思う。

参加出来なかったスタッフミーティングの議事録などもアップされるので情報の共有にもよい。
グループ上では主に演出家と打合せていても、すでに他のスタッフとも打合せが進んでいると言える。

さらば相棒

打合せ中、知り合いの俳優から電話がかかる。
何かと思えば、演劇をやめて家業を継ぐことにしたという報告だった。

ちょっと前から都内に通える距離の実家に戻ったりしていたことや、色々の事情・家業の状況を聞くにつけ、遅かれ早かれこういう日がくるのではないかと感じていたので、意外という感はなかった。
家業を継いだほうがいいんではないか?と、冗談と本音の区別なく話したことは何度かあった。

思えば、彼が俳優・演劇を志してほどないころからを見てきていた。
何度もスタッフとして、同じ公演に関わってきた。
団体をつくってみて旗揚げ一回きりだった(そして作・演出家が途中でいなくなるという)公演にも、意を決して入団したら解散になってしまった団体の公演にも、そして今のところ彼が演劇に関わる最後となっている公演にもスタッフで入った。

首都圏には、数限りない劇団が発生しては消え、きっと数え切れない俳優が志なかばで道を変え、あるいは郷里に帰っているだろうことで、こんなことはめずらしいことではない。
身近にも、忘れてしまったり、気づかないくらい数あるだろう。

しかし、くしくも彼の演劇人生の最初から最後までに居合わせたと言えなくもない、と思うと不思議な気分になる。

自分が、偶然にも演劇に関わることを、続けていられる幸運も感じさせる。
しかし、すべての人にとって、何か志を通すことがかならずしも幸福であるかどうかはわからない。
志と引き替えに安定した生活や家庭を手に入れることによって幸福になる人もいるだろうし、彼のように家業を継ぐなどしたことで、今まで見えなかった道が開かれたり、帰るべきところが見つかることもあるだろう。

あるいは、彼くらいの年齢ならまだ若いから、そうした決断ののちに、また演劇の世界に戻ってきて活動を続けているような例だっていくらも見てきた。
もしくは、市民劇団のようなところで、地に足のついた生活と演劇を両立させている人もいるだろう。
それも悪くはない。そうして演劇の層が広がるということもある。

ARBの曲に「さらば相棒」がある。
男の友情・別れを歌った名曲。
ARB解散ライブでの、ゲスト原田芳雄による歌唱が印象深かった。

彼とは、その歌詞にあるような「相棒」でもなく、そんな別れでもなかったが、幸せに暮らせるさと語りかける詞は、いつだって挫折に優しく、彼への心境に近い。

現代口語な会議

先週つくった「表彰台とプラカード」を納品するために、昼には渋谷に着くように朝神戸を発つ。
本当は、車両に積み込むのはもっと早い時間なのだが、相乗りを頼んだ仲間内が積んでおいてくれるというので、早朝ではなくてすんだ。

昼にギャラリー・ルデコに行き、相乗り現場の荷下ろし搬入を手伝う。
空いた車に自分の納品物を積み残して、ドライバーと同乗し、納品。

夜、六尺堂ほぼ全員集合しての全体ミーティング。
事務所には入れない人数なので、作業場エリアに車座になる。
やや予想はしていたが、今回の議題は多く、議論はすべて消化するところまで行かず。
翌日も積み残し議題を片づけるため集まることになる。
通常の実務的議題ではなかったので、項目で箇条書きにまとめるのではなく(また、それが追いつかないので)ほとんど口述筆記のようなことをする。

口述筆記による記録は、当たり前ながら「現代口語演劇」的で、極めて論理的な会話を指向する会議なのにも関わらず、書かれたものを読むと、展開に脈絡がなく、話が色々に飛び交う。
これが、現在の日本語会話のリアルであることを感じる。

チェルフィッチュの作演出家・岡田利規さんは、テープおこしの仕事の経験から、あのようにリアルな現代口語のダイアローグを発想したと聞く。
かつての言文一致体の発生においては、二葉亭四迷が、当時の新技術・速記術による落語の口演筆記を参考にしたという。
この日の会議の口述筆記も、ブラインドタッチのタイピングスピードやパソコンの変換能力がなければとうてい追いつかなかった。

存在する技術や、記録のなされ方によって、リアルの感覚はそれぞれの時代によって変わるのだろうと思う。
自分の肉声の録音再生を客観的に聞くこともなかった江戸時代においての歌舞伎のリアルなどは、またわれわれの感覚とは違ったのではなかろうか?と想像する。

有頂天ホテル、とか

家のテレビが壊れてしばらく、テレビを見ていなかった。
なくてもそんなに不自由ではなく、困るわけでもない。
もっぱら、テレビを見るよりも、パソコンで映画とかライブDVDを見ることが増えた。

帰郷して久しぶりにテレビを見る。

二夜続けて、「THE 有頂天ホテル」と「地下鉄(メトロ)に乗って」という、すでに観ている映画をもう一度観る巡り合わせになった。
「有頂天ホテル」にいたっては、2回どころか4回とか5回観ているかもしれない。
ラストにYOUが歌うところに限って言えば、20回は観ていると思う。あの歌唱はいい。
素直にサントラ盤探して買えばいいのだが、シーンにしてもよいのだ。盛り上がりが。
「地下鉄(メトロ)に乗って」のほうは、原作を読んであらためての2回目になる。

そして、途中にCMが入るのを、こんなに煩わしく思ったのは初めてだった。

「有頂天ホテル」に関しては、シーンのつながりやテンポまで、いつの間にか覚えるほど見ていたようだ。
そのまどろっこしさと言ったらなかった。
しかもノーカット(だいたい切ることの出来る箇所がほとんどない。すべてが密接につながっているので)だったので元々長めの作品が、さらに全体の尺が伸びて、作品を守っているのにも関わらず間延びしているように感じてしまった。

どういうわけか、自分がつくった作品であるかのようにハラハラした気分で、家族の反応を見る。
CM前に入る先のストーリーダイジェストがうざくて仕方がない。

そんな間延びした映画を見ている、60を超える自分の母や祖母には、あの緻密に組み上げられ完璧なテンポと思われる「有頂天ホテル」ですら、ちょっと展開が早すぎたらしい。
難しいものだ。
「地下鉄に乗って」にいたっては、一部ストーリーを理解していなかったかもしれない。
原作から重要な描写を削っていることが、登場人物の行動をわかりにくくさせている。
割と年配者でも泣ける方向性の映画のはずなのだが。

「有頂天ホテル」の完成度の高さとか、プロットの緻密さに関しては一度ちゃんと検証して論評してみたいところ。
そういえば自分の身の回りでは、「みんなのいえ」の評価があまり高くないのだが、「デザイナーと大工、という物をつくる人間どうしの理解、に作家の考え方が色濃く現れている」というような論評を読んで、なんとなくあの映画に対して感じていた感覚の正体を言い当てられた気がして面白かった。
そして「マジックアワー」も観なくては。
「有頂天ホテル」に引き続き、種田陽平氏の映画美術にも興味をそそられる。
作品はもちろん、思考を積極的に発言し、美術家という職業の地位向上、業界の間口を広げることに貢献している姿勢もすばらしいと思う。

京都で 東京の変化

行きつけのコインランドリーが、行ってみたら臨時休業で困る。
こういう事態を考えてなかったので、他に近場のコインランドリーがあるか、実はまったくチェックしていなかった。
しかし、調べてみるとこんな便利なものが。

パソコン版コインランドリー刑事」 

便利な時代になって、(趣味なのかもしれないが)親切な人がいるものだ。
こういうことがあると、とても「ウェブの良心」を信じたくなる。

午後から関西へ帰郷。
途中、京都で学生のころしていたバイト先の学校写真屋に寄る。
結果的に演劇にも縁のあるところで、自分が東京に来た後、関西の「劇団飛び道具」の藤原くんも永らく勤めていたところだ。


東京へ来てからも何度か顔は出していたのだが、しばらく間が開いていて、考えてみたらかなりのご無沙汰であった。
最近、写真がデジタル化していることや、関西での写真や印刷業界の状況について話が盛り上がる。
出版社が集中した東京ではなかなか感じられないが、関西ではプロラボの閉店など、フィルムからデジタルへの時代の変化が、より激しく見える形で起きているという。
また、印刷のダンピングの影響も。

演劇で言えば、だれでもデジカメで写真を撮り、パソコンでレイアウトして、安い印刷屋に出して、4色なんかのチラシを手軽に作ることが出来るようになった、という便利な傾向は、東京ならまだしも、それより仕事量の少ない地方では、業界に対する深刻なダンピング競争、仕事の枯渇につながっているようだ。

思えば学生のころから、ここでそんな話をすることで、写真や印刷やビジネスの色々なことを教わってきたものだ。
それは今も変わらない。
こうして久しぶりに会って話すと、あらたに知ること発見も多い。

かわりに、社長は東京の様子を聞きたがる。
どんな新しいビジネスや状況があるのか?京都にないものは何かないか?
しかし、東京の生活が日常になっていて、現在の関西の状況も、いくら地元で土地勘があるとはいえ、リアルタイムな生活レベルではわからなくなってしまっている。
東京で、どう当たり前なことが、他の地方でどう驚かれる目新しいことなのか?想像がつかない。

「東京は女性がみんなきれいであか抜けている」と言われたが、日常そんなことは意識しない。
ある種の感覚の麻痺だろうか?
意外に、東京から発生している「変化」については、東京に暮らす人間はビビットに感じることは出来ていないかもしれない。一歩引いてみたほうが、世間がよく見えることがあるかもしれない。

たとえば、演劇の世界からギリギリ離れたところからのほうが、演劇の世界の変化は見てとりやすいかもしれない。

しかし、日常の中で変化していくことに対する麻痺、というものには演劇とかのレベルでなく、もっと大きな危険も感じる。どこから見たら、変化に気がつけるのだろうか?



根の深いWS / ガウディの樹

映画の特殊美術製作のための取材で奥多摩へ。
取材っていうか、植物の「根」のイメージのダミーをつくるために、参考になるホンモノの素材を採取するための取材。ある意味ワークショップ(体験的学習、実験)だ。

仕上がったプロトタイプにどうもリアリティがない、と先日の打合せで指摘して、今日の機会を提案した。


自分がリアリティがないと感じている「感覚」が、多分言葉で説明するだけでは他のスタッフに充分に伝わるという気がしなかったから。
自分がそう思う根拠には、子供のころ崖に露出してる太い木の根を手がかりにつかまって遊んだ記憶、芋掘りやその他雑草・立ち木もろもろの根を掘り起こした経験があった。
だから、他のスタッフ、特に実際製作する特殊美術さんに、体験でもって伝えようと思ったのだ。

割と太めの根も必要であるので、崖に根が露出しているような場所を求めて、土地勘のある人間がいた奥多摩へ行くこととなった。

現地は、岩が切り立った谷間。
車でしばらく舗装されてない林道を入ったあたりで、よさそうな場所が出てくる。
山肌が崩れて、岩と土砂がまざったような斜面に、草木が立っている。

子供みたいに喜んで崩れた斜面を登り、ガツガツと根っこを引き抜く。引き抜く。

抜いていると、枝だか根だかわからないような部分も出てくる。
植物は、根でも枝でもリバーシブルにフレキシブルに変化できるのだろうか?
多分、そうとしか思えないのだが、正確な知識ではない。
では、その変化する指示はどこから出ているのか?という疑問が、その場の話で起こった。

多分、細胞一つ一つ、DNAにそのための情報が刷られていて指示を出しているとしか思えない。
つまり部分部分が個別に的確に判断して変化している。
それでいて全体が問題なく機能する。
動物のように、中央集権的(「脳」が指示しないと身体が動かない、とか)でないと言えようか。
WEBの発達によって発生している現象、オープンソースやWikipediaなどの性質は、動物より植物に近いのかもしれない。
これからは植物的社会を目指す時代なのかもしれない。
バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号」ではないが、世界が一本の樹(宇宙樹だとか、神話世界の樹の話も数多くあるイメージだが)だとすれば、植物を見ている限り、そういうシステムの社会でうまくいくはず。
しかし、そういう考え方はちょっとしたアナーキズム(無政府主義)に近づく。ちょっと違うとは思うが。


だいぶいい感じに採取できた。
次の段階として、これをスケッチして、どう描くとリアルなのかを発見する、根が持っているフォルムを繰り返し描線を描くことで体に入れる、という段階を踏むつもり。

スケッチのWSに参加する学生スタッフには、「琳派」「村上隆」「南方熊楠」「アントニオ・ガウディ」について調べておくように指示した。
WSの際、話すと予想されることの共有言語として必要だと思ったので。
後で考えたら、「伊藤若沖」「曾我蕭白」とかも入れておくべきだたかもしれない。

ガウディ、と言えば。
もし発想を広げるなら、、、植物よろしく(動物もだが)成長し続けるシステムが生命体だと考えるなら、今もって完成しない、建築を続ける、部分が全体を構成するサグラダ・ファミリアを、ガウディは「生命体」としてわざと完成しないように設計し、世を去ったたのではないか?などと夢想をしてみるのも楽しい。



ノコの挽き方

ベニサンピットで仕込み(舞台設営)。
工房(六尺堂)の仲間うち、ハカマ団の現場。

スチールデッキで高台を組み、平台に木足という木工で、細かいところや低いところをつくる。
前半は全員でスチールデッキ組みや、ガツガツとした木足の組み。
後半は、木工系の現場手直しポジションに回される。
どうも、自分の場合、現場で切ったり、直したり、帳尻を合わせたり、というポジションがよくふられる。

最後は、現場作り足しみたいな作業を、ちょっとした修行もかねて、若い学生に任せてみる。
まずはやってみててもらって、途中でノコの挽き方をアドバイスする。


【ポイント1】 精密に墨(印)をつける。つねに鋭く削った鉛筆(サインペンやボールペンで太くてよくない)と差金(直角がとれる)を使って、ちゃんと直線を引く。最低二面、シビアな場合は三面引く。

【ポイント2】 安定していて、切ってもいいものを下敷きにする。
※安定してないところで精密なカットをしようなどというのは、土台無理な話。安定させた上で、切る箇所を宙に浮かせて(下を切らないように)切る人もいるが、自分は、最後まで安定して切りきるように、下敷きをする。そのほうが切りきるときに割れたりもしない。

【ポイント3】 挽きながら、ちゃんと墨線の通りに切れているか、三面とも確認する。
※確認するだけでは、まっすぐは切れない。挽き方は、やってみて慣れるしかない。力ではなくコツ。

【ポイント4】 実はまず、これが最初なのだが、よく切れるノコを使う。

そして、
【ポイント5】 絶対に正しい方法なんてものはない。十人いたら十人違うことを言うのが職人さん。
※方法や求められる要素(精度・時間など)は人と状況によって変わる。この通りに切ってて「何やってんだよ」と怒られることもあり得る。「何でもいいから早くしろ」と言われることもあるだろう。
いちいち凹まない。
人と状況を見て方法を選ぶこと。
あとは結果ちゃんと切れていれば、それですべてOK。
早くて丁寧なら尚よし。

実はポイント1〜2、は大道具手元のバイトをしている時に見て覚えた。
盗めると、技術の上達は早い。