舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

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2008年あたりは、割と色々書いてます。






























2008年9月7日

オッカムの鉈

連続模型「カンタンの水」作業予定日。

朝から工房に出て、素材を見ながら、吊りものオブジェのデッサンを重ねて、作業準備する。
クジラの骨にもペットボトルにも爆弾にも見える「J」の字形のものを構想していた。
しかし、なかなか納得のいくデザインにならない。
意を決して作業を中止。
間に合う時間なので「通し(稽古)」を観るべく稽古場に向かう。
迷うくらいなら、作業量を減らして稽古を見たほうがよい。

オッカムの剃刀という言葉がある。
必要以上に多くのものを盛り込んではいけない、というような意味がある。
今回の舞台美術プランにおいて、この吊りものがそもそも必要かどうか?を考え直す。
作業場で感じていたことが、通しを見てさらに確信できた。

台本や稽古の断片で想像していた以上に、通して見ると作品が重くなっている。
装置でこれ以上情報を増やす必要はないと感じた。
吊りものも、その他床材の仕上げ塗装に加えようとしたディテールも、芝居に対して説明過剰になると思った。

稽古後、打ち合わせ。
思い切って吊りものをカットすることを提案する。
装置としてはほとんど床材、床面のみのプランになる。
「オッカムの剃刀」ならぬ「オッカムの鉈」
剃刀のように怜悧で明解なカットではなく、大鉈でバッサリ、直感と感覚に従って力任せのカット。
当初は、どちらかというと、床材のイメージはなく、吊りもののみの構想だったのだが、逆転。

さらに照明の加藤さんとも意見同じく、抽象的で黒に統一された衣裳に、ちょっとした上着や部分で具象性を持たせることを提案する。
黒で統一しているのが過剰にスタイリッシュで、喪のイメージが強く意味を持ちすぎている。
具象性によって日常に近づく分、物は増えるが演出的作為は削られる。

演出の意図することが、本当に伝わるかどうかには保証がない。
説明的要素が多いほうが、その不安がなくなる。
カットするほうが不安は大きい。
作家とか演出家は常にその不安の崖っぷちにいる。
しかし、思い切ってカットしたり、修正する勇気も大事だ。
説明過多なのは見ていて押しつけがましく面白くないし、格好よくない。
そのさじ加減は作品により異なるが。

本当に正解かどうかは、劇場に入って、さらには観客も入って完成してみないとわからないので、打ち合わせの最後は、「いけるよね」「いけるよな」という自問自答的・自己暗示的な繰り返しで終る。
決めたら後は信じる。

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