舞台美術プランとか劇場スタッフとか、
かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。
今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。
2008年あたりは、割と色々書いてます。
まず作品を観る、稽古場に行く
そして、作演出・舞台監督・美術小道具、顔を合わせての打合せ。
稽古場で動きつけてみているのだとか、役者の肉体、たとえば声ひとつとっても、台本を読むのではわからない圧倒的な情報量がある。
まだ、色々なことを決めてしまわずにアイデアを出す段階。
最初のオーダーというか、イメージとして出ていた舞台空間とは違う、縦長の舞台、対面客席を提案してみる。
稽古場での動きとスピード感を見て、長い距離をとった空間がいいのではないかと直感したので。
稽古場で寸法をとって動いてみた結果、狭さを感じていたようで、長い距離をとれる舞台、また以前やろうとしてまだやってみたことのなかった対面客席に興味をもってもらえたよう。
もうしばらくアイデアを泳がせてみることにする。
台本はまだ最後までではないし、なかなか断片だけで上演を想像しにくい作品。
自分も舞台監督も過去の上演作品を観ていないので、過去作品のDVDを観たいと希望する。
なぜ、こんな基本的なことに気づかなかったのか。
顔合わせの段階で希望しておけばよかった。
急いで近いうちに見られるように段取りしてもらう。
記録映像では、もちろん作品を伝えきることは出来ない。
しかしどんなに簡単な記録映像でも、けっこうな情報量があるだろう。
教訓 / 観たことのない団体の仕事をするには、過去作品の映像を観るべき。そして、稽古場に行ってみるべき。
人生狂騒曲
打合せの多くは、作家・演出家からイメージやキーワードを引き出すやりとりになる。
ひき出すために、質問を選ぶ。
正解ではなくても、反応からイメージをたぐるために思いつくことを提出する。
チラシもそれら作品モチーフによるコラージュ。
作演出・清水さんの思考の数々を、そのまま広げたような情報の羅列。
リアルに頭の中を見るよう。
今回は、こういったキーワードやイメージをどれだけ散らかしたまま拾い上げられるかが勝負だと感じる。出来るだけまとめないで、全体のイメージでとらえる。
タイトルは「無重力ドライブ」
王子小劇場のタッパや空間のボリュームとも相まって、深いプールのイメージが強くある。
そして、宇宙的イメージと重なる「無重力」感というキーワード。
モンティ・パイソン的印象もある。
スクラップ群やチラシのコラージュは、特にテリー・ギリアムのコマ撮りアニメ的な印象を受ける。
清水さんの、水中にダイブして来る人のイメージと、ロンドン塔を掃除している写真のスクラップから、モンティ・パイソン「人生狂騒曲」の冒頭で窓の掃除をしているテリー・ギリアムを連想する。
奇しくも、「人生狂騒曲」は関係なかったが、モンティ・パイソンは清水さんも好きであるとのこと。
こういう共通言語や感覚は大事。
映画なり音楽なり文学なり、そういう「作品」についての感覚は共通体験に近い。
作家・演出家が具体的な指示として言葉に変換したイメージは、必ずしも語彙が同じとは限らないし、そこから幅をもってイメージを抽出するのは手がかりが少ない。
しかし、ある「作品」に対するイメージというのは、互いにもとから幅があるものなので、言葉に変換される前に頭の中にあるイメージを手繰りやすい。
感覚的な趣味嗜好がわかることで、その人の語彙を知る手がかりもつくることが出来る。
はじめて会う作家・演出家でも、なにか一つ共通の趣味嗜好(演劇でも、映画でも、音楽でも、文学でも)を見つけることが出来ると、その先の作品づくりに対して、少し安心できる。
はてなの茶碗 笑いの構造
目下上演中である連続模型「モテイトウ」オムニバス作品のうちの一本「膨張。〜もう一歩前へお進み下さい〜」の落ちが「はてなの茶碗」とよく似た構造だという話を、作演出のタクシセイコさんにしたところだったので、聞き返したくなったのだ。
話の内容は、以下のサイトに詳しい。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/6684/hatena.html
物語構造として王道の一つで、他にも類似するプロットは多くあると思うのだが、それを劇構造の一つとして的確に説明する言葉・用語を知らない。
自分の引き出しの中では、こういう構造のものは実例として「はてなの茶碗」をすぐに連想する。
また、故林(広志)さんが「人間は距離感で感動するし、笑う」と教えてくれたのを思い出す。
たとえば、モンティ・パイソンの「哲学者サッカー」や、ジョン・ベルーシ「サムライ・デリカテッセン」は、
「哲学者」が「サッカー」をする、
「サムライ」 が「デリカテッセン」店員、
といったそぐわないものの「距離」が状況のおかしさをつくっている。
ドラマのラストで時間軸が一気に飛んだり、回想したりするのも、時間の「距離感」で感動を呼ぶワザ。
「はてなの茶碗」の「落ち」は、感動(泣き・笑いも感動のひとつとは言えるが)ではなく「笑い」で、これに近い距離感の使い方をしている。
むかし親族代表の公演でやった「元気になった浅野君」を見た知り合いが
「笑いのこと少しわかった気がします。積み上げておいた階段を最後に外す、ってことですね」
と指摘したのだが、これも同様のことだと思う。
これは特に、段階的にエスカレートしていった「笑い」が最後大きな距離感で飛ぶ点も、構造上「はてなの茶碗」と近い。
幕が開いても
スクリーンの手直しのみ、朝一でしに行くつもりが寝過ごす。
劇場に行くと、舞台上は返し稽古にとられ、他に手伝うことも発生して時間をとられる。
「夏のWS・高尾」の下見に行く途中で寄っただけのところを、予定返上。
マチネ(昼公演)開演ギリで、スクリーンのドレープ手直し決行する。
マチネは満員で観ること出来ず、阿佐ヶ谷パールモール商店街をぶらつく。
土曜日のアーケードは、のんびりしていてよいなあ。
阿佐ヶ谷は、飲食店や生活感のある商店が充実していて、なかなか快適に暮らせそうな街だ。
気になっていた「ミート屋」がちょうど空いていたのでスパゲッティを食す。
こういうシンプルでしっかりしたものはよいなあ。
しかし、のんびりしてばかりもいられないので、急遽近場で打合せの予定を一本入れる。
ソワレ(夜公演)、やっと客席より本番を観る。
客席から観ていると、手直ししたもののスクリーン下のドレープが芝居を集中して観るのに邪魔だと感じる。
終演後カットすることを提案し、決行。
初日客席で観られなかったからこの日観る運命に、この日一日現場にいる運命に、こうする運命にあったのだ、と妙に納得する。
ゲネ(リハーサル)中は、作業しつつ観ていたし、気づかないこともあった。
幕が開いても、気になったらやるしかない。
終演後の飲み。今回の音響で、元Ele-C@作演出の森田さんに
「そんなに自分のギャラを(時給換算で)下げてどうするんですか、やりすぎです」
「ちょっとは、演出家この程度で気にしないだろ、とか手を抜くことはないんですか」
とダメを出される。
しかし、来てしまって、見てしまって、気になってしまった以上は仕方がない。
カットしたドレープはあったほうがよかったのに、との感想も聞く。
もともとプランにあったものだし、そう言われるのも尤も。
意味も機能もあるドレープではあった。
そのことを明晰に理解しているのは、さすが演出家。
しかし、装置の意味とか整合性より、芝居として観ていて気持ちいいか悪いかのほうが大事、と思ったのだ。
「いい加減演劇関わって長いだろうに、なんでそんなにライヴへのドキドキ感を維持し続けられるんですか」
と指摘される。
まるで他人事のようだが「なるほど自分はそうだったのか」と意外な驚きをもって、洞察に感心する。
そういえばもう十年も前だが、一人芝居の高山広さんにも同じようなことを言われたのを思い出した。
よくわからない物たち
舞台上はすでに演出家・出演者・照明・音響、すなわち本番に直接関わる人に渡した状態。
昨日の場当たり(段取りチェック)の残りから開始し、ゲネ(ゲネプロ、本番通りのリハーサル)。
この段階になると、舞台美術に出来ることは少ない。
しかし、自分はいつもギリギリまで何かしようとする。
さらに、今回はロビーや劇場の回りにまで飾り物があるので割に忙しい。
劇場の回りに水の入ったペットボトルを並べる。
ペットボトルは、毛糸を切っては結んだ物でつないでいく。
盛り塩を置いて、タマネギを吊る。
鉄管結び
規模が小さく運ぶ物の少ない公演とはいえ、劇場入り日の朝積み込むというのはめずらしい。
8時に積み込みをして、9時に工房を出発。
途中、自宅にも寄って、いくらか荷物を積み、11時めどと思われた劇場・シアターシャインには10時30分ごろに到着。
タマネギ、ナス、キュウリだとか毛糸だとか、あまり舞台装置と思われない、不思議な買い物を手分けして頼む。
他にも、空のペットボトル、ウイスキーのポケット瓶、たくさんの本、錆びた結束線、など搬入物はきっと舞台装置として不思議な物が多い。
幕やスクリーンなど若干吊るものがあるが、これを自分がやっていると全体の指示が出来ないので、ヒトに任せる。
連続模型の団員・鈴木健之「タケちゃん」に鉄管結びを教えて活躍してもらう。
すぐに覚えてくれて助かる。
演劇や舞台に関わるなら、この「鉄管結び」は覚えておいて損はない。
この日も舞台上の装置転換で、鉄管結びする必要がこの後発生し、タケちゃんは覚えてすぐ思い切り役に立つことになった。
物が少ない仕込みの割に、吊り物に割と時間をとられる。
これは、ちょっと油断していた。
高所作業は、慣れとか技術も必要だし、一気に人数でかかれないから、規模の小さい劇場でもバカには出来ない。
明かりづくり(各シーンに合わせて、照明を調整・決定する)くらいまでは多少遅れ出つつも順調。
場当たり(段取りを決定すべき場面場面を実際にやってみながら、決定していく)に入るとさすがに思惑どおりには進まず。
4話オムニバスで個別に演出家がいる上に総合演出がある故、色々な段取り決定が発生する。
若干の場当たりを翌日に残して退館。
場当たりを見つつも、ちょっとした飾りを増やしたり試行錯誤する。
舞台上に散らかす本とかテープがまだ少ないので、各演出・出演者にもお願いしつつ、翌日自分でも持って来て足すことにする。
箱男
以前ある公演で製作した後、去年トリガーラインでも再利用し、アトリエに持ってきていた椅子をリメイク。
表面をバーナーで焼き、ワイヤーブラシで落とす。
もとの塗装を落とすためと、木目を立体的にたてるため。
今回は濃いグレーに塗るので、もとの塗装の白を落としてしまいたいし、塗り重ねると木の素材感が弱くなるので。
焼いた感じが意外によかった。
しかし、今回はすべて濃いグレーに統一したいので、この発見はすぐには生かせないが。
新規に製作するものはそんなに多くないが、塗り仕上げ前の作業に割と時間がかかる。
連続模型の前回公演で使った木箱の塗り直しや、新規製作製作の木箱。
木箱が多い。
夜、参加すると約束していた、工房の「ほぼ週刊WS」に、なんとか作業のキリをつけて参加。
今日のお題は、「究極の釘箱 / プラン編」
今日のナビゲーターに、このネタを推したのは自分でもあり、もちろん興味もあったのだが、予想以上に盛り上がった。
今日のところはプラン編として2時間ほどだったが、まだまだプランするために調べるべきことや実験するべき宿題がたくさん挙がり、このネタだけであと数回のWSが出来そうに思えた。
より使いやすい釘箱や工具箱を自作したいと思ってはいても、なかなか暇がなく、既成のザルやプラスチックケース、タッパなどを使っているのが現状。しかし、これには使い勝手にまだまだ不満もある。
暇をつくって、工夫をこらした釘箱を早くつくりたい。
WS後、明日朝一積み込みなので、塗装した装置を乾燥かたがた広げて帰る。
箱、箱、箱。
箱づくしの一日。
08年7月の近況
王子小劇場の佐藤佐吉演劇祭・佐藤佐吉展の仕事でやり残していることがあるのと、連続模型「モテイトウ」の進行で、頭のモードがそっちに行っているせいか。
思いがけず忙しくなってしまっているようだ。
ブログも一ヶ月ためるとなかなか追いつくのが大変。
何をしたか?という日記的事実は割と振り返ることが出来るが、それはあまり書くほどの記事にならなぬ。
書き記しておきたい、ふと考えたようなことが消えていく。
7月前半にしてすでに、8月末・夏休みの宿題ためたみたいな気分。
六尺堂ブログのほうは、撮ってのせるだけに近いノリがアップしやすい。
写真撮ったり、セレクトしたりするのは、文章ひねるより身についた感覚なので楽ということもある。
写真は身体感覚に近いと思う。
ロジックより、直感のスピード。
しかし、そんなシンプルな記事でも、外側から演劇や舞台美術の世界を覗きたい人には、それなりに興味深い内容になっているとは思う。
下ごしらえ
そして午前中、工房(六尺堂)で工房運営関係のミーティング。
ミーティング終了後、買ってきた素材を明日の作業に備えて整理などする。

今回も装置の金具を部分的に錆化するのだが、前もって酸性の薬品につけて酸化させておいたほうが、後工程で塩素系の溶液に浸した際の錆化が早く進むことを、前回トリガーラインの装置製作でつかんでいたからだ。
夜まで、明日の作業に向けてのプラン作業。
今回は、図面をひくほどの装置がないので、部材の実寸をとったりラフスケッチを重ねてイメージをつめる。
夜、アトリエで東京ネジ「みみ」を観劇。
またしても内容については、同じ回に観ていた、かわひ_さんのブログに頼る。
東京ネジは、王子小劇場での東京旗揚げ以来、王子での公演は観ていたものの、他の場所で観るのは初めて。
いつもながら女性的視点と世界で、個人のアイデンティティーに帰結する物語は、(特に女性には)感情移入して観やすいものではあろうと思う。
いくつかのモチーフが終幕に向けて重なっていく構造は、観続けるだけの興味をひくものだが、全体の長さにはやや集中力をそがれた。
「耳」「聴覚」を切り口にした連想、ドラマの幅は面白いのだが、もっと遠いイメージや意外な展開にまで広がれば、と期待してしまう。よくも悪くも手堅いドラマにまとまった感があり惜しい。
作者も意図していなかった無意識的イメージや、観客個人によって解釈が異なるレベルにまで広がればもっと面白い。連想と多重なイメージから、意外性ある新しい世界の提示が見たい。多分、演劇はそういったものの表現に向いたメディアであるはずだと思う。だから期待もしてしまう。
年の功とはいえ、大塚さんがやはり上手く、味があった。
終演後話もしたいし、顔を合わせれば飲みにでも行く流れになるかと思いきや、すれ違いで残念。
アトリエの榎戸氏と、五反田駅前でまだ入ってない店を開拓して飲む。
奥座敷の内装が、フローリングの床がアールになって、そのまま壁、天井になっており、面白い。
青年団の志賀さんオススメという甲類焼酎キンミヤを飲む。
クセがなく、なかなかいけた。
ちくわ木産
ちょっと早いかもしれないが、自分としては劇場入りまでに最後の打ち合わせとなる。
舞台美術家の〆切は、装置製作の作業があるため、他セクションより早くもなる。
打ち合わせも早いうちに進める必要がある。
今日は稽古は見ずに、打ち合わせにのみ吉祥寺まで。
だいたいの物は現場で配置してみて、自由に動かしてもらうというアバウトさがコンセプトの舞台美術プラン。
しかし一応、劇場サイトから落とした図面画像をトレスし、ざっくりした劇場のCADデータをつくって打ち合わせに臨む。
ドラマ「下北サンデーズ」には、さくら水産がモデルと思われる、演劇関係者が集まる安い居酒屋「ちくわ木産」というのが登場していた。
この日の吉祥寺・さくら水産は、まさに「ちくわ木産」状態に、客席が見事なばかりに全員演劇関係者だった。
下北沢ならいざ知らず、吉祥寺でこの状況とは。
しかし、吉祥寺には以前から稽古場スペースBeもあるし、連続模型でも、他の団体でも公共施設の稽古場を使ったりしている。
最近では吉祥寺シアターが出来て、質の高いプログラムも多い。
近隣の三鷹芸術文化センターも小劇場演劇に力を入れていることで有名。
吉祥寺の街自体も、様々な店舗があるし、ライブハウスが多く、ミュージシャンが集まったり、文化的土壌があるように思える。
演劇が活況を呈する要件はそれなりにあるのかもしれない。
東京はいくつもの街が文化的なコアとなり、寄り集まって文化圏を築いている。
吉祥寺も間違いなくそのコアのひとつになり得ている。
たとえば、吉祥寺シアタークラスの、いやもう少し小さくてもいいが、地方都市にありそうな中劇場で地元劇団が成長し、演劇がそれなりの頻度で上演されるにはどのくらい演劇人口や施設が必要なのか、思考実験として大雑把に計算して考えてみる。
たとえばキャパ200くらいの中劇場がひとつ。
そこで動員800人くらいの団体の公演が月に二回くらいかかっているとすると、年間で24回。
首都圏でなければ、年二回公演くらいでないと辛いとして、動員500人〜800人くらいの中堅劇団が10団体くらいあるとする。
そのうち半分くらいの団体が新陳代謝するとして、数年おきにこれくらいのクラスの劇団を5団体くらい生む状況を考えると、民営のキャパ50〜100くらいの劇場(を公共がつくることは少ない)が四つくらいは必要ではないか?と感覚的に思う。
新しい劇団が生まれるには、小規模の空間から段階的に劇場が必要になる。
一定の動員力つまりはクオリティーの劇団が成長するには、いくつかの団体が切磋琢磨し、生で上演を観る機会が必要だ。
そうすると、最低四つくらいではないか?と思う。
劇場の稼働率が半分でよいとして、年間25公演×4=100公演。年二回公演したとして50団体はないと、民営の小規模劇場はやっていけないだろう。
その年間100公演が稽古できるだけの稽古場施設が、2つから3つ、中堅劇団を入れると4つから5つは必要か。
これはあくまで稽古場専門とした場合で、他の利用と混在する場合はその分、豊富な公共施設などが必要になる。
一団体10人くらいいたとして500人、中堅劇団を入れると演劇人口600〜700人くらい。
ということは、ひとつの中劇場で演劇公演が活発に行われる水面下には、スタッフや周辺人口まで余裕をみると800人くらいの演劇人口が円滑に演劇活動出来る土壌が必要ということになる。
800人くらいの演劇人口が、一週間に一回飲みに行ったとして、一晩に100人とか?
偶然よく行く店に集まることも想像に難くない。
吉祥寺の場合、その土壌や演劇人口は中央線沿線〜都心部とリンクしているから、そのままの数、吉祥寺の演劇状況とは言えないだろうが、さくら水産がちくわ木産化するのもやや納得できる。
これはかなり大雑把な、あくまで思考実験としての計算だ。
数字の根拠もない。しかし、演劇の現場に関わる者の感覚としてはそれなりの説得力があると思う。
現実の地方都市では、状況はもちろんこんなもんではないだろう。
地域により差はあると思うが、はるかに少ない演劇人口と、施設はじめ厳しい状況で演劇活動をしているだろうと思う。
旗揚げ劇団に適した上演会場も少なく、いきなり中劇場の大ホールで1日公演をする、などという現実があることは知っている限りでも想像できる。
公共ホール・劇場などをつくるといった、文化行政を行う方々にはぜひ認識してほしい。
大きく立派な劇場だけつくっても、文化振興は出来ない。
少なくとも地元の演劇は育たない。
稽古場や小さな劇場、ライブハウスや「ちくわ木産」が文化的土壌としては必要なのだ。
リサーチの日
団体が劇場入りする前に軽く下見に行く。
30分程度なので、こまごま採寸する時間はなく、重要なポイントを実測するのと、気になるポイントをチェックするのみ。
今回は、その程度で問題ないアバウトな美術プランで進めてもいるので。
そうではあっても、過去の記憶や図面だけでなく、実際に空間を見て発見したり、感じたりすることは重要なので劇場さんに無理を言って団体の入り前に下見をさせてもらった。
駅からの道のりや、周囲の街は公演への重要なアプローチとなる空気をつくっていたりする。
行きは丸ノ内線で南阿佐ヶ谷から。帰りはパールモール商店街を通ってJR阿佐ヶ谷駅へ歩いてみた。
JR阿佐ヶ谷からアルシェあたりは、(アルシェに)何回か入っているので知っているが、南阿佐ヶ谷界隈はなじみが薄かったので色々散策する。
劇場に入ってから舞台装置がらみで購入する可能性がある物を買える場所など要チェック。
観客の視点で、気になる店や街の雰囲気もチェックする。
何を思いつくわけでなくても、まず空気を感じる。
あと、数日ではあれ通うことになる街なので、楽しみにできるものを探す。
飲食店とか。
どこの街であれ、せっかく来たついでにあれを食おう、とかあると俄然楽しくなる。
たとえ珍しくないチェーン店でも、最寄り駅や普段の行動半径にない店なら充分。
阿佐ヶ谷駅北側だと、海鮮丼屋、たこ焼き屋。アルシェの近くに「はなまるうどん」なんかはすぐに思いつく。
現場の弁当は揚げ物と米で重たくなりがちなので、劇場近くでうどんが素早く食べられるのはなかなかよい。
阿佐ヶ谷から、中央線で新宿に出てハンズに寄ってみる。
ふだん、舞台美術プランのために、、、といってあまり立ち寄る場所ではない(ホームセンターや専門の金物屋のほうが安くてプロユース。目的に適う物が多い)ので、こういう時間のある時に寄ってみる。何か知らない新しい、面白い物が出てないかのリサーチ。
さらに、タイル素材について漠然と考えていたので、ついでにINAXのショールームにも立ち寄る。
ちょっと今回思っていたような物はなかったが、こうやって通ううちに現物のイメージや質感を頭の中にストックする。
ショールームに行くと、ネット上ではわからない生の感覚や、ホームセンターなどでは扱っていない商品の情報がリサーチ出来る。
ついでに川崎まで足を伸ばし、ラゾーナ川崎に出来たと聞いたもののまだ行っていなかったユニディに行ってみる。車だと五反田の工房(六尺堂)から、実は便利な距離であると仲間うちから聞いてはいたのだが、品揃えがわかっていないと実製作進行中で頼りに出来る店にならないので、この機会にリサーチ。
ふだん使っている豊洲のビバホームにないものもあるが、全体に一回り品が少ない印象。
電車移動と自分の行動範囲からすると、豊洲のほうが便利か。
しかし、巨大な複合施設は本屋や家電量販店、100円ショップなどもそろっていて広大。
ついつい色々見てしまうのは楽しいが脇道にそれるのが危険。
生活圏にあれば、かなりの便利さだろう。
工房までの交通の便を実際に確かめるように、一旦工房へ。
若干のデスクワークののち、連続模型「モテイトウ」の通し稽古を見るべく三鷹の区民集会施設へ。
一部ビデオではあったが、通してみて全貌が見えた。
4本オムニバスの各チーム、お互いを知らないまま、初めて第三者(他のチームやスタッフ)に見せるのが、いい意味での緊張になって、ちょっとしたワークインプログレスとしての効果をなしていた。
総合演出やそれぞれの連携が難しくはあるが、無理な長編を一本つくるより、まとまった短編を各パート緊張感と互いへの客観視をもってつくるオムニバスは、作品を向上させる利点が色々あるように思えた。
いい状態のカンパニーだと、場面の多い群像劇なんかを、これに近い稽古場・団体運営でやっているかもしれない。
奇跡的な日
これがどこかの劇場の近くや、王子(小劇場)、菅間さんの家の近くとかだったら、当たり前にあることだが、池袋のような互いに脈絡なく、東京のような大都会の人ゴミでばったり会うというのは、なんでもないようでいて、実は奇跡的な確率である気がしてうれしかった。
5m先にいて互いに気づかなくてもおかしくない状況だし。
菅間さんのように、年齢を重ねてなお演劇に対して新鮮な向き合い方を続けられることも奇跡的だと思う。
「自分たちが演劇を始めたとき、あんな年齢まで続けられたら、と憧れて観ていた菅間さんが、(自分がそんな年齢になった今も)まだ続けているなんて」と感動していた年配の演劇人の声を聞いたことがある。
ストーンズや清志郎には、いつまでも活動し続けていて欲しいし、U2が高校の校内で募集を見て組んだメンバーのまま活動を続けていることも奇跡的で感動する。
夜、新宿に移動して打合せ。
なんか全体的に赤い一角で待ち合わせ。
そして今日はもう一つ奇跡的なものを見たのだった。
日本の映画と、演劇とかを変える歴史的ポイントになるかもしれないものを。
実現すれば。
こういうものが都内に存在するというのが奇跡的だし、実現したらさらに奇跡的だ。
そうなることを願いたい。
その歴史の記録となるべく。特に内容は書かないのだけれど、ここに書き記してだけおく。
自分も忘れてしまって、それでも後世のだれかが発見して、朽ち果てた野仏のようになるといいなあ。
ポストポストモダン
朝、24時間風呂屋を出て五反田のアトリエヘリコプター改装に直行。
午後からは王子小劇場勤務に向かう。
柿喰う客「俺を縛れ」観劇。満員でブースから立ち見。
モニターを通しての音・ガラス窓越しでも、パワーと熱気が充分伝わった。
バラし(装置撤去)作業は、24時を回った。
王子小劇場は1998年7月1日に開館したのだった。
10周年の瞬間、2008年6月30日24時。
ホール内はバラし中。
それとなくカウントダウンするため、ネットで時計を合わせて、10秒前から声に出してカウントしてみた。
カウントの瞬間「おめでとうございます」の声がそこら中であがる。
バラし後は、柿喰う客の打ち上げが、10周年記念の小さな宴も便乗ということもあってホール内で行われる。
劇団からのサプライズで、誕生日ケーキが出てくる。
打ち上げは盛況。
同時に、王子小劇場の10周年も祝って盛り上がる。
ある人など、劇場スタッフを差し置いて
「(某劇場名)、(某劇場名)、何するものぞですよ!」
と、酔って気を吐いており、楽しかった。
打ち上げ中、役者に作品の感想を聞かれて色々話す中で、今回の作品あるいは柿喰う客の演劇は「ポストポストモダン」だ、とわけのわかるようなわからないような指摘をした。
自分が「ポストモダン」そのもの、その言葉の定義を正確に理解しているのか、おぼつかないところはあるのだが、なぜ「ポストポストモダン」と言ってみたくなったのか、整理してみる。
それには、まず日本の近代演劇史における「モダン」「ポストモダン」を振り返ってみる必要がある。
日本の近代演劇史においての「モダン」は、明治期の言文一致運動に連携する形で、演劇の近代化を行おうとした「新劇」の歴史にあたるのではないかと思う。それはあまり外れていないと思う。
(建築におけるモダン、と新劇系の具象度の高い舞台美術では、だいぶイメージが違いはするが)
60年代、鈴木忠志、唐十郎、寺山修司の出現・アングラの発生は、そういった「モダン」に対抗する形で出てきた意味では「ポスト(=次の)」ではあった。
寺山修司の場合はカバーする領域が広すぎて、演劇の流れの範疇ではなく突然変異的ではあるが。
時代の空気としては、そういう流れだったのだと思う。
これらの流れは、近代的理性よりも日本の土着性や身体性を指向したことで「モダン」に対して「アンチ」ではあった。しかし「ある主義」を持ち主張していたという点で、延長線上にあって、「ポストモダン」という印象とは異なるように思える。
「アンチ」になって対抗することは、ある意味同じ土俵の上で認めているわけだから。
そういう意味で、日本の近代演劇における「ポストモダン」の発生は、これら「アングラ」からつかこうへいの登場にかけて、やや緩やかに始まり、野田秀樹・夢の遊眠社、鴻上尚史・第三舞台、などの80年代小劇場の登場で一気に転換した気がする。「80年代小劇場」といえども、ひとくくりに出来ない色々な演劇が生まれたが、共通するのは先行世代が持っていた「主義主張」を対抗するのでもなく無視した、無化したことだと思う。
そんなものはなくとも、面白い物はつくることが出来るし、そのほうが面白い、と笑い飛ばしたように見える。
そして、それら「ポストモダン」80年代の小劇場の「ポスト(次に)」来たのが、青年団「現代口語演劇」の登場だった。
それは、一週回った「モダン」の刷新のように思う。
「新劇」の時代に追求していた近代化の一つ「リアリズム」には、どうしても歴史的に政治的な主義主張が加わっていた。80年代小劇場が、そういった主義主張や、演劇が持つ「運動」としての体質を無化した。
主義主張や運動性を削ぎ落とした「リアリズム」「モダニズム」が、新しい言文一致「現代口語演劇」だと思う。
90年代以降の演劇の先端は未だこの流れに続いたところにあると思う。五反田団、チェルフィッチュしかり。
90年代以降、近い時代を分析するのは難しいが。
他に特筆すべき出現としては、松尾スズキ以降の「悪意の演劇」か。
しかし、これらは作家のテーマ性に帰結するところで、演劇の構造や流れを地殻変動させるものではなかったと思う。様式としては、80年代的諧謔に、90年代の時代認識が加わって更新された感がある。
シベリア少女鉄道やポツドールのアンチテアトルな試みも、突然変異的で個人の資質に負う部分が強いと思う。
シベリア少女鉄道のような、特異な才能にはついぞ追随者が出ないし、ポツドールも一時の実験的な作品から足場は変則的静かな演劇の「リアリズム」に落ち着いたように見える。
柿喰う客を「ポストポストモダン」と評した由縁は、彼らが80年代演劇の「ポストモダン」の様式をとりつつも、90年代以降を視点に入れつつ、それらをさらにもう一度、80年代演劇が先行世代を無化したように、劇構造を壊して笑い飛ばしている点にある。
「ポストモダン」自体を、それ以降のものも含め、「ポストモダン」的に笑い飛ばす。
一週回って、メタ化したポストモダン。
劇構造の壊し方、笑い飛ばし方としては、「俺を縛れ」は最後やや手堅いところに落ち着かせてしまった感があるが、彼らの笑い飛ばしの真骨頂は、むしろ全体的な「悪ふざけ感」「本気でやってない感」にあると思う。
「悪ふざけ」の悪意には90年代以降の時代感覚が自然に入る。
それでいてパワー全開。
さすがに、この若さゆえのエネルギーがいつまでも続くとは彼ら自身も思っていないだろう。
しかし、まず勢いがある時に行けるとこまで行っとくのは、正しいと思う。