「舞台美術家になるには」という記事を書いたことがあって、これが意外と読まれている。
舞台美術を志すひとの検索ワードになるからか?
十数年して、今「舞台美術家になりたい」という人にはそんなに会わないが、近いことを若い人に聞かれることはある。
「どうして舞台美術し始めたんですか?」
なぜ?どのように?やってきたのか、きっかけとプロセスを知りたいのだと思う。
それは、自分も舞台美術をやりたいというのではなくても、この先の人生・将来どうしようか?という若い人には参考として気になるのだろう。
自分は「舞台美術をやりたい」と思って始めた、とかではなく紆余曲折・行きがかり上・気がついたら、なので長い話になるのだけど、これをかいつまんで話すことになる。
それを、話すよりもちょっと詳しく、脱線もしながら、ときに端折りつつ、書いてみようと思う。
それでも、やや自伝めいた、めっちゃ長い文章になりそうだ。
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そもそもの入口は、舞台写真だった。
もっと言うと、大学で同じ授業をとっていた友人からタダ券をもらって観に行ったのが、学生劇団・月光斜の学内公演「朝日のような夕日をつれて」だった。学生ながらラストには床が傾斜していて、そこに金替康博さんとかが立っていた。
自分と同じ学生がつくっているとは思えない完成度、とその時は思っていたのだけど今考えると「熱量」なのかもしれない、に自分は何が出来るだろうか?何かしなければ、と思ったものだ。
そこから少しずつ演劇を知るようになるのだけど、月光斜の向かいのBOXの写真サークルに入った自分は、月光斜をはじめ学内の学生劇団の舞台写真を撮るようになる。
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そのころ自分は写真サークルで活動しつつ、京都市内の卒業アルバムなど製作している会社で学校写真のカメラマンとしてバイトしていた。主に修学旅行だとか運動会だとかの撮影。
(後に自分が卒業して辞めたあとに、劇団飛び道具の藤原大介さんが入って来る)
ある日この会社の「演劇などはまったく知らない」社長に、舞台写真を撮ってるという話をしていたら、
「それ、別に頼まれへんでも、撮りたかったら撮ったらええんちゃう?」
「頼んでないのに撮ってもらえたら、喜ぶかもしれへんで?」
と言われた。
まだ世間知らずで素直だったんであろう。言われるまま、ただ観に行っただけの芝居でシャッターを切ってみた。みんながスマフォ持ってるような時代じゃなかったからか、開演前に注意もなかったし。
しかし、勿論すぐに場内係の人がやって来て止められる、という恥ずかしいことになるのだけど。
これが自分にとっての初アイホールだった。
1990年のこと。
駅から劇場までは、今よりもっと遠くて広い印象だった記憶がある。
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社長に報告したら、
「そうかー、アカンかったかー」
と、他人事のように笑い話で、オトナもあてにならない、などと思ったのものだが。
(たぶん、鉄板焼きとかはご馳走になりつつ)
ネットやSNS時代になって、室内でも男肉 du Soleilみたいな団体・公演はある。
2023年の野外で出会った優しい劇団も(野外に限らず)そうだった。
今になってそう考えてみたら、社長の言っていたことも「少しだけ」は正しかったのかもしれないが。
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ところで、この頃の写真はもちろん銀塩フィルムである。
ゲネ・初日に撮って、そこから現像に出しても数日かかる。
プリント代ももったいないし、現像してからカットを選び、プリントする。
「現像〜すべてプリントの一発格安スピードプリント」では質が悪く、特に舞台写真などは満足な仕上がりにもならなかった。
数カット試し焼きしてから、指定して再度プリントに出すなんてこともしていた。
そんな状態なんで、公演最終日にはまだあがらない。
それでも、打ち上げには参加する。参加したいし。
自分だけ仕事が終わっていない、その出来もわからない状態で打ち上げに参加するのが心苦しくて、せめてバラしを手伝うようになった。手伝ううちに、学生劇団の新人よりは少しずつ色々わかって出来るようになる。
そして、
「これは、道具持ってないと手が出せないな。」
という段階が来て、少しずつ腰道具を揃えるようになり、カメラバックからガチ袋が出て来るという不思議な人になった。
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卒業して最初は、大阪で(スーパーとかの)折り込みチラシ広告の会社に入った。
とにかく写真の仕事がしたかったのだが、それは数撮らないと上手くならない・日々撮ってないと腕が落ちると当時考えていて、それなら趣味では追っつかないし、仕事にしなければと考えたのだった。
演劇に関わっていたことや、バイトの卒業アルバムの仕事を経て、自分の仕事の結果が被写体やそれを手にする人に近いものがよいと思って、この会社に入った。演劇を通じてチラシというものに興味もあったし、日常生活に関わってるのがよかった。
スタジオ経験や写真学科を出ていなくてもカメラマンとして採用してもらえたし。
入社すると、この会社の撮影スタジオに毎週一日だけ来るフリーのカメラマンのゴトーさんという人がいた。
ゴトーさんは、社員カメラマンの手に負えないような撮影が発生したときのためにスタンバイしている「用心棒」みたいな感じなのだが、折り込みチラシ広告の会社にそんな撮影はほとんどなくて、毎週ただコーヒーを飲んで雑談して帰るだけの人だった。
自分がいた三ヶ月で撮影していたのは二回きり。
ただ、そうもブラブラさせてられないし、新人が入ったということで、自分の教育係ということになった。
なので、弟子入りしたわけではないけど、自分にとっては正式に師匠と言っても良いのかもしれない。
ただ、最終的にゴトーさんが教えてくれたことは、具体的な技術は少なくて、もしかしたら色んな仕事、特に表現や創造に関わる仕事や生き方に関する「美学」みたいなものだった。
そんなゴトーさんは、最初に言った。
「写真家になりたいんか?カメラマンになりたいんか?写真家になりたいのなら、自分に教えられることはない。作家にはいつでも、いくつになってもなれる。創作意欲さえあれば。カメラマンになりたいなら教えられることはある。」
そう、言われては
「カメラマンになりたいです。」
と言わざるをえない。
しばらく経った頃、こうも言った。
「コマーシャル(広告写真)やりたいんか?」
正直、自分はそこのところはっきりしていなかったのだけど、せっかくコマーシャルを生業にしているゴトーさんに問われたら「はい」と答えるしかない。
「コマーシャルやりたいんやったら、こんなところ(会社、大阪)おったらアカン。東京行け!」
「はい!」
素直だったので、ゴトーさんに教えられるまま
「次の行き先、決めてから辞めようなんてことしたらアカン。逃げ場つくらず、戻って来ないようにケンカして辞めなアカン。」
ということで、三ヶ月で辞表たたきつけて、その後ゴトーさんが
「こことかええで!」
と教えてくれた超一流の広告カメラマンの事務所のアシスタントに入ることが叶って上京する。
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ところが、ここからがさらに紆余曲折。
その事務所は一年で自分から辞めることになる。
そもそもコマーシャルの仕事がどんなものなのか?やりたいのかもわかっていなかったのに、ちょっと仕事のレベルが高過ぎてついていけなくなった。
その後、一年前に求職して周っていたとき知り合っていた、もっと雑な編集プロダクションのカメラマンアシスタントになり、ここからが情報量多過ぎる4年間くらいがあって割愛するのだが、その会社がなんかよくわからないことになると同時に、自分自身もフリーカメラマンなのか何なのかよくわからない感じで放り出された。
その編プロにいた頃からわずかに個人でやっていた仕事の一つが、関西発の演劇情報雑誌 「じゃむち(Jamci)」の東京取材撮影である。
ま、その「じゃむち」も少しギャラが上がった矢先に無期休刊してしまうのだが。
最終号の表紙・佐々木蔵之介さんは自分が撮っている。
直近に「12人の入りたい奴ら」を観ていたので、
「デッビール、お願いしていいですか?」
と頼んでやってもらったカットが、黒田武志さんによって採用されている。
「じゃむち」で一番最初の取材撮影は流山児祥さんだった。
本番・ゲネ前日の本多劇場。
ライター別日インタビューだったので、客席で写真だけ撮ったのだが、いきなり、
「明日、空いてないですか?ゲネの舞台写真撮るカメラマンが手配出来てなくて」
と頼まれる。
一年で事務所辞めた直後だったし、当然空いたので請けて、それから流山児☆事務所に出入りするようになり、舞台写真やチラシ用の写真を撮るようになった。学生の頃の先輩たちの劇団を関西に撮りに帰るなどすることでも舞台写真は続けていた。
その「じゃむち」無期休刊近い号の取材で、単身上京したガバメント・オブ・ドッグスの故林広志さんに再会する。
再会といってもわずかの面識しかなかったけど。
なんとなくフリーになったみたいな状況で作品を増やしたかった自分は、
「色々、お手伝いしますよ」
と申し出て、そこから公演自体を手伝うようになる。
いつしかそこで自分がやっていることが制作や舞台監督と呼ばれているようなものだとわかるようになった。
舞台写真撮ってバラシ手伝ってる程度だったので、実はどんな仕事かよくわかってなかったのである。なんとなく知ってる知識で「こうしたらいいんじゃないですか?こうしといたほうがええな」をやってたら、そういうことだった。
たくさんの舞台を見てバラシや、そのうち仕込みも手伝っていたので、なんとなく見様見真似で大道具なんかもつくり始める。
つくり始めてみると、
「これは我流では限界あるな」
と思ったので、イベント現場のバイトくんから始めて、そのうち、
「これは、大道具名乗って派遣会社行っても大丈夫ちゃうか?腰道具もあるし」
と転がっていく。
そのうち、ひとから舞台監督を頼まれるようにもなるのだけど、舞台装置・美術も込みということが多く、やってみると自分が舞台監督にあまり向いていない人間で、どうも舞台美術のほうにこだわってしまうのがわかってきた。
少しずつ美術プランの立て方も体得していった。
毎回、新しく知ったことを試していくような感じだったと思う。
頼む側も周りも舞台美術専門で、と言うようになり、その頃には自分の周りに「ちゃんと」舞台監督している友人や仲間も増えていったので、次第に頼まれても舞台監督はしなくなった。
そういう「ちゃんとした」ひとたちに対して自分が「舞台監督」名乗るのは失礼に思えて。
もちろん、この頃にはもう写真を仕事にはしていなかった。
ただ、舞台写真を撮り続けていたことは、自分が舞台美術プランをする上で強力な基礎にはなっていると思う。
フィルム時代だったので、ちゃんと撮れているかどうかは現像してみるまでわからない。
現像も高いから、今のデジタルのようにはカット数も撮れない。
そのための計算とフィードバックを重ねてシャッターを切ることは、3次元空間を2次元映像に変換する演算の千本ノックのようなものになっていたと思う。
撮ってきた数々の舞台の空間構成や立ち位置の感覚が、自分の身体に入っていると思う。
演出家や舞台美術家・照明家の諸先輩たちの仕事から得ているものもきっと多い。
舞台美術プランする過程で、自分は雑で下手なスケッチしか描かないことが多いが、把握している空間の感覚は、自分が意図するところとあんまり外れたことがないように思う。
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さて、自分の背中を押して東京に送り出してくれたゴトーさん、とはその後会っていない。
最後に別れるときゴトーさんは、
「続けていれば、またどっかで会うやろ。」
と去って行きかけたが、引き返して来ると、
「まあ、それも寂しい話しか」
と、連絡先のメモを渡してくれたが、
「これを、使うということは、わかってるな!」
と言って去って行った。
実は、このメモを一度だけ使った。
大阪にいる大学のサークルの同期が仕事を辞めてカメラマンになりたいと相談して来たのだ。
まだキャリアもなく東京に居る自分では、まったく力になれないので、この連絡先に手紙を出して、ゴトーさんを紹介した。
メモはそのまま破棄したので、連絡先は今もわからない。
もしかしたら、あのときに自分は「写真」を手放して「演劇」を続けることになったのかもしれない。
写真は続けていないが演劇は「続けている」自分が、
「またどっかで会うやろ」と言ったゴトーさんに再会することはあるだろうか?
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舞台美術をやる上で、師匠とか弟子はいないのか?と聞かれることもある。
師匠と弟子というのはお互いがそう認めて、そうなるものだから、特に弟子にしてくださいというのがあって始まったりするものだし、そういう意味では自分に師匠はいない。
師匠がいないから弟子というのもよくわからないし、だから弟子もいない、と応える。
ゴトーさんだけは正式に一対一の教育係として任されて、自分も師だと思っているので、ギリギリ師匠かもしれない。
では、独学で舞台美術をするようになったのか?というと、一方的に師だと思ってる「心の師匠」はいる。
程度は色々あるし、師匠ではなくても仲間内から学ぶこともある。
そういうことがあって続けてきたし、続けて来られたと思う。
その中でもっとも「心の師匠」と呼ぶべき人に、フジタさんがいる。
フジタさんを師だと思っている人はたくさんいるはずだし、本当の愛弟子もいるから、自分にとってはあくまで「心の師匠」
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フジタさんには、舞台監督やら舞台美術をやり始めてた頃、劇団ペテカンを通じて出会った。
元々、ペテカンの人々とは仲良くなっていたころに、シアタートップスで続けて公演に入ることがあり、ペテカンでバラシ後廃棄するパネルをそのまま残しておいてもらい、頂戴するという話があがった。
お互い様ではあるが、お世話になるんだからということで、ペテカンの仕込みやバラシにも、さらには勉強のためにもってことで稽古場でのタタキ(舞台装置製作)作業にも、遊び(手伝い)に行った。
そこに、フジタさんは居た。
2001年のことだ。
フジタさんにとってペテカンの人々は教え子であり、部活の顧問というかOBのコーチが居るみたいな感じだった。
いったい座組みにおいて、どういう肩書きにあたる人なのか、まったくわからなかった。
タタキ作業をひとしきりフワっと仕切っては、作業が終わると嬉々として料理をして宴会の準備をしている。
いったい座組みにおいて、どういう肩書きにあたる人なのか、まったくわからなかった。
タタキ作業をひとしきりフワっと仕切っては、作業が終わると嬉々として料理をして宴会の準備をしている。
それからの数年間いくつもの公演で、フジタさんからは色々なことを一方的に学び、飲みながらたくさんの楽しい話を聞いた。
今ではとても基本的と思えるようなことも学んだし、数々の武勇伝も聞いた。
最初は謎の人だったフジタさんのことも、少しずつ知るようになる。
それを面白く、一つ一つの学びについても伝わるように書き記すことは、自分にはきっと力が及ばないが。
フジタさんと出会ってしばらくした頃、関西の舞台監督・ゲバ(永易健介)さんと飲むことがあった。
たぶん、2004年12月28日、MONO「相対的浮世絵」 バラシの後、打ち上げが(前日だったため)なかったから、バラシを手伝ったわれわれを誘ってくれたゲバさんが「終電大丈夫?」と言ったときには、すでに始発が走る時間だったときだったと記憶しているから。
フジタさんの事を話して「知ってますか?」と尋ねると、
「知ってるも何も!関西(の小劇場界隈)に舞台監督という概念を持ち込んだの(パイオニア)は、あの人やで!」と。
フジタさん、とは、藤田康明さんのことである。
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藤田さんが演劇を始めたきっかけはロックだった。
高校に入った頃の藤田さんは、とにかく高校に入ったらロックがやりたくて軽音楽部の部室を訪ねたのだが「うちは(フォークで)そういうのはやってない」と言われる。
それでもロックをやりたくて仕方がないフジタさんが校内を歩いていると、どこかの部屋からジューダス・プリーストが聞こえてくる。
「ここに行けば、自分はロックが出来るんじゃないか?!」
と開いた扉の先に居たのは、上半身裸で竹刀持って踊っている、いのうえひでのりさんだったという。
演劇部の部室だったのだ。
あるとき、東京で生活するフジタさんの元に、いのうえさんから連絡が入る。
「劇団旗揚げしたから来てくれ。」
ということで、藤田さんは初期の劇団☆新感線や関西の小劇場演劇界に関わっていくことになるのだった。
コアラさんとコンビだった人と言えば、わからない人にはまったくわからないが、わかる人には響くだろう。
コアラ(宮田重雄)さんのことは、藤田さんからいくつもの伝説を聞かされていた。
関西にはコンパネ(12mm厚の合板)をカッター3回で切れる舞台監督がいる!とか。
ある時、
藤田さんが、東京のスペース・ゼロで、どうしても色々と間に合ってない仕込みがあった。前夜、意を決した藤田さんは大阪にいるコアラさんが、もう寝ているであろう時間に電話をかけ、留守番電話に、
「明日、朝9時、ゼロの搬入口」
とだけ残して、電話線を引き抜いて寝た。
まだ携帯電話もメールもなかった時代。
藤田さんは、相棒でもありライバルであるコアラさんに「どうした?!」と聞かれたり心配されるのが嫌だったのだという。
翌朝、搬入口に行くと、、、
「ヤツは、風のように立っていたよ。」(藤田さん、談)
その日一日、コアラさんは何事もなかったように淡々と仕事をこなし、無事仕込みは進んだらしい。
仕込み中、コアラさんの腰道具を見た藤田さんは、
「おう、いいナグリ(舞台用玄能)持ってるじゃないか?くれよ」
と言って、自分の手にした。
コアラさんは、
「予備くらい、持っとるわ」
と、応えたという。
「その、ナグリが、今使ってるこれだよ」
と、それを前にして語ってくれたことがあった。
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いつだったか?
藤田さんと出会ってしばらくしてからだったと思う。
やはり飲んでるときに何かの話の流れで、
F.W.F実行委員会テント興業「日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇」
@JR京橋駅特設テント
1991年3月
の話になった。
藤田さんはこの公演に参加はしていなかったのだが、仕込み中に通りかかったのだという。(本当か?様子見に行ったんだと思う、、、)そうすると藤田さんを見つけた古田新太さんに、
「ちょうどええところに、ええ人来た!」
と捕まった。
どうやら野外テントの仕込みに苦戦中だったらしい。
心得のある藤田さんは排水のことなど色々とアドバイスしたらしい。
アドバイスというか
「おい!ユンボ持って来い!」
という感じで、色々と指導したらしい。
やはり藤田さん本人が語っていたようには面白く伝えられないのだが。
野外テント公演で気をつけないとことなどと共に語ってくれていた。
聞いたときに驚いた。
この公演、当時学生の自分は観ていたのである。
当時は勢いある若手、そして当時でもそうだが今振り返るとさらに豪華な出演者陣、ダイナミックな作品が今でも印象深い。
荒々しい文字で書かれた「史上最強 南河内万歳一座」の幟がはためいていたのを覚えている。
そんなところで藤田さんとも、ある意味すれ違っていたのだ。
ちなみに、その後、
2004年5月に、ウルトラマーケットで公演された
南河内万歳一座プロデュース「日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇」
の舞台監督は、ゲバ(永易健介)さんがやることになる。
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藤田さんから聞いた、野外の武勇伝がもう一つある。
ある時、関西製作のツアー公演の舞台監督で名古屋の野外でやった公演があったらしいのだが、そのバラシにおいて事件は起きる。
ツアースタッフ本隊に加えて、名古屋の現地大道具もたくさん入ったバラシだったらしい。
野外で時間もかかり皆がイライラとして荒々しくなる「嫌な空気」が流れていたらしい。
名古屋の演劇関係者も手伝いに来ていたのだが、その中に一際おぼつかない動きの男がいた。
イラついた藤田さん(当時、まだ血気盛んでもあったのだろう)が、
「この!へっぴり腰!」
と、蹴りつけようかと思った刹那、
「想さんー」
と声をかけて、佳梯かこさんが歩み寄った。
北村想さんだったのだ。
藤田さんは「あのとき、かこさんが声をかけていなければ、俺の演劇人生は終わっていたところだった」と述懐する。
そんな、荒れたバラシの最中、舞台監督の藤田さんに向かって、名古屋の現地大道具さん達が乱暴にバラした何か?木材?が飛来した。藤田さんの手のひらに鋭い木片が刺さった。
現場は、一瞬で血の気が引いた。
現地大道具がツアー本隊の舞台監督をケガさせたとあっては事件だ。
藤田さんはそのとき考えた。
「ここで自分がケガということにしてしまったら、それはもう事件・事故になる。この現地さんたちとも楽しく打ち上げで酒が飲めなくなる。だが、これが大きなソゲだったらどうか?ソゲが刺さるのはケガのうちに入らない!」
ここで騒がなければ、これはあくまで「大きなソゲ」だ。
藤田さんは、手に力を込めてこらえ、打ち上げ中も血が流れないように片手を上げ続けて「大きなソゲ」をキープし続けたという。
「イライラしちゃいけねえよ」という流れで出てきた話だったと思うのだけど、藤田さんが話すと、こういう逸話がゴロゴロ出てくる。
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名古屋の野外といえば、時は流れて2023年。
白川公園で自分は優しい劇団に出会う。
そのときの記事はここに。
次に観た本公演「歌っておくれよ、マウンテン」も白川公園で。
そして、
そこからの経緯は
ということで、
2026年1月4日、アイホールで、
を公演企画することになるわけだけど。
公演を企画してしばらくしてから発見した。
1990年10月
伊丹市市制50周年記念公演AI・HALLプロデュースvol.1
「砂と星のあいだに」
あの時、すでに出会っていたのだ。
そして今回の客席も、あの公演を思わせるように丸い。
出来るだけ客席をつくろうとしたら丸くなった。
今回、当日パンフのクレジットでは「プロデュース・セノグラフィー」としてみた。
「プロシューサー」というと、それを仕事にしたり専門にしているみたいなので、あくまで今回の「プロデュース」に過ぎない。
「セノグラフィー」と名乗ってよいような空間・景色がつくれそうなので、当日パンフには入れてみた。
これが、どう「セノグラフィー≒舞台美術」なのか?ということについては、またの話にしよう。
とても個人的なことだけど、35年くらいかけた伏線回収のようだ。
「なるべく終わらないカーテンコール」
2026年1月4日




