1月4日の本番までに、出演者のことや、これまでのことなども記していけたらと思うのだけど、今回始めましての方も多くて全員は無理だし、それでも少しずつ出来るだけ書いてみようと思います。
坂口修一さんと、久しぶりに会ったのは、今年の3月末、
に仕込み増員で行ったときだった。
舞台美術は新しいものになっていたけど、なんと22年前につくられた、とてもしっかりした座席が発掘されて来ていた!
止まれない12人 [ 2003年〜2004年上演時、美術記録画像 ]
(JATDT 舞台美術作品データベース)
そりゃ、流石そうですよねという仕上がりのこの椅子たちは、終わって捨てるのがあまりに勿体なく。
(「返却してくれるな!」ということだったらしい。そりゃ、そうだ。残っていたのが奇跡)
仕込み日にはまだフワっと「いくらやったら売れるやろか?」「ほんまに売れるかー?」とか、話してたけど
本当に売ってみることになった。
そして、さすがにほとんど売れた!
まあ、なんらか「届けます」みたいな話してたときに「(金かからんし)リアカーで運ぶか?」とか冗談言ったりしてたら、大王が「それはもう、人力車だ!」と鋭いツッコミを入れてくれて楽しかった。
丁寧につくった舞台装置でも、捨てられるのがほとんどの運命だけど、そうして買われたり貰われたりして残るのは幸せなことだ。
自分も舞台美術プラン、装置製作するとき椅子とか日常で使われそうな物は、出演者や関係者に欲しいと貰ってもらえるような仕上がりにすることも、かなり意識的に考えている。
そして、これまでけっこう色々な人に貰われて行ったり、残されてきた。
もし、この記事を読んで「まだウチにあるよ」という人いたら、とても久しぶりな人いたら連絡ください。
さて、この現場は舞台監督の
higeさんからの発注だった。
実は、higeさんは、
この企みを思いついたとき真っ先に声をかけて、押さえていた。
公演の告知は4月1日にしたかったので、3月末はその直前のタイミングだった。
その優しい劇団が1年後の1月4日に
3月31日で閉館する劇場でやる公演の告知なんだから、それはもう4月1日に開始するしかないだろう、と。
ウソみたいな日に、ウソみたいなことを告知する。
出演者はまったく決まっていなかった。
尾﨑さんや劇団員の何人かは確実に出演するだろうけど。
まだこの時期には誰に、特に関西の俳優さんとか誰にお声がけするかリストアップしてる段階だった。
自分が知らない、そしてアイホールに間に合わなかった若い人にも出て欲しいので、なんらか募集の機会はつくろうとは話していた。
しかし、まだ関西では知られていない優しい劇団である。
募集するにも誰か初動で関西で名の知られた俳優さんの出演を発表しておきたかった。
そこで坂口さんである。
劇団員や若手は、朝から仕込みに参加していたが、客演である坂口さんは確か午後くらいにやってきた。
higeさんが
「そうか!この先輩たち、インパクト渡しといたらやってくれる人たちだった!」
と手渡すと、バリバリとやってくれはる。
インパクトどころか丸ノコ作業まで!
そう、坂口さんは大道具としても、めっちゃやっていた人だ。一定世代以上の男性俳優は、そこまではいかなくてもある程度何か出来たりするけど。当日の増員も、平宅さん(
本若)だったりしたし。
今や絶滅危惧種ですね。道具できる(特に若手)男性俳優。
higeさんにも「誰に出てもらったらええかなー?」とか相談してたら、この公演のことも坂口さんに伝えてくれていた。
「割と良い反応だった」と聞く。
尾﨑さんにリストアップした関西の俳優、なかなか実際に観たことあるとか知ってる人が少なく絞り込みが難しかったが、坂口さんのことは知っていた。
「じゃあ、まず坂口さんあたってみましょう!」
ということになり、快諾をいただく。
お声がけするにあたり、
4月の「大恋愛」に1日自分が立ち会って(それがどんな状況・プロセスなのか確認して)みてから、という段階を踏んだので、発表は
6月の浅草九劇の際になった。
今回、お声がけするまで坂口さんとは互いに知っていても、直接連絡とるような距離感ではなかった。
いつからだろう?
例えば、2000年5月の
このとき、仕込みとかバラしまで手伝ったのか、打ち上げとか行ったのか何か話してどうしたのだとかは定かに覚えていない。
まあそんなにドラマチックなこととか事件はなかったんだと思う。
その後、確実に再会するのは、2005年5月
坂口修一×
平林之英×
末満健一 空想科學三人芝居[宇宙猿]
のとき、自分が王子小劇場のスタッフとして。
このときのことは色々と記憶にある。
当時、劇場の技術管理として仕込みバラしには立ち会っていた自分だけど、このときはいなかった。
なぜなら、自分が
舞台美術プランしている現場があったため。
そして、その現場(仕込み1日目終わって、作業場に行って仮眠した翌早朝)で、間に合ってなかった装置製作作業していて、指の先を少しだけ落としてしまうケガをした。
そういうタイミングだったということもあって、余計に覚えている。
その状態で、自分のほうの初日も開いて落ち着いてから、王子にも顔を出し、坂口さんや
シャトナーさんたちと飲んだ。そんなケガして飲んじゃいけないはずなんだけど、初日乾杯ではすでに飲んでたから、きっと飲んでたと思う。
確か平林さんが、夜中に「お茶を淹れる音がした」とオバケの話をしていたから、皆さん宿泊されてたはず。
自分は「見える」ほうじゃないので見たことないけど、王子は出ますよね、いますよね、と言われたことはあった。
劇場で死んだひととかいないし地下掘った(掘ったらなんか出てくる、京都や大阪城でもない)新築なんですが「人が集まる」劇場は寂しい幽霊が集まりやすいとは聞く。
ともかく、宿泊していたはずで、ロビーで遅くまで飲んだ記憶。
色々な話をしたけど、シャトナーさんから、阪神大震災時(前日にアイホールで「破壊ランナー」を上演)の話を聞いたのはよく覚えている。
打ち上げの帰り、横転した電車のドアを自力で開いて、後ろも振り向かず線路を駆け出した
腹筋善之介さんの話とか、帰宅して離れのシャワーで入浴していたら、母屋が倒壊し、お兄さんが窓から「カリオストロの城」のルパンのごとく脱出したという福岡ゆみこさんの話とか。
(伝聞からの記憶によるものなので、多少の誇張あってもお許しください)
この時をきっかけに、
王子小劇場とシャトナーさんとのつき合いは、その後
シャトナー研EX「辻つま山脈」2005年5月
シャトナー研EX「帰らない先輩」2005年7月
リリーエアライン「巨獣」 2006年4月
と、続くのだけど、今振り返ってみたらものすごい短期間ハイペースだ。
シャトナー研EXは、劇場主催公演として出来るだけ劇場スタッフで色々なんとかしていたので、どちらのチラシや当日パンフも自分がデザインしていた。
たくさんやり取りした末にシャトナーさんと意気投合出来たところあったのは楽しかった。
個人的にシャトナーさんとはその後、公演中止となった、
おうさか学生演劇祭プロデュース「ジャム」2021年9月
での再会果たすことなく、今に至っている。
さて、坂口さんとの再会は、その後、自分のほうで一方的に活躍を目にしたりはしていたが、
2014に自分が関西に戻ってからは上演を拝見したり、時々なんかでお見かけしたりすれ違うくらいな感じ、ではっきりいつだったかは覚えていない。
最初に会ったのがいつだったのだろう?と思い出すと、このときのことはとても印象深く覚えているのだが、それはどこだったのか忘れて定かではなかった。
二人ともしっかりとは覚えていないのだけど、たぶん
MONO「その鉄塔に男たちはいるという」 1998年12月@
AI・HALL
のはずなのだ。
自分の記憶の映像では、はっきりとアイホールの楽屋ではないのだけど、前後の公演で自分が舞台写真撮っていて、該当しそうな公演がこれしかない。
扇町ミュージアムスクエアの楽屋や舞台裏の風景ではまったく違う。
このとき、自分は大学の先輩でもある縁でMONOの舞台写真を撮っていて(そう、自分は学生のとき学生劇団の舞台写真を撮ることから演劇に入っていったのだ)その楽屋で、舞台監督のゲバ(永易健介)さんの助手みたいな感じで坂口さんがいた。
このときは、仕込み手伝った記憶ないし、ゲネ撮影するのだから劇場入り数日目というところなので、たぶん坂口さんは仕込み増員とかじゃなくて公演通して助手的に入っていたのだと思う。
どういう流れでそういう話になっていたのかはわからないが、MONOの人たちが坂口さんに、演劇始めたきっかけみたいなことを聞いていたのだと思う。
(あくまで、自分の記憶で記すので、きっとご本人から聞いたほうが面白いとは思う)
大学に入って演劇をしたかった(それがなぜ展覧劇場だったのかはこのとき聞いていない)坂口さんは、展覧劇場の部室の扉をたたく。
するとそこには、煙草をプハァとふかした女性の先輩がいて
「あんた、、、本気で芝居する気あるん?ちょっと考えてみたほうがええんちゃう?」
と、いきなりのパンチ。
その日は、スゴスゴと退散した坂口さんだったが
「いや、やっぱり、自分芝居したいしなー」
と思い直し、後日まだ部室を訪れる。
すると、そこにはちょうど留学生の見学を案内しているゲバさんがいた。
部室の中にはゲバさんがつくったものがそこら中に転がっているので、
「I made」
「I made」
とカタコトで繰り返している姿があった。
ゲバさんのことを知っている人なら、想像が出来るだろう光景。
ひとしきり案内を終えたゲバさんは坂口さんのほうを振り返り
「どうしたん?」
と
「やっぱり、入部したいんですけど」
「ああ、ほな、入って」
自分は、この話が大好きでとてもよく覚えている。
ちなみにゲバさんが、なぜ「ゲバ」さんなのかは、
ある時、永易青年が新人で集合時間に遅れていったら、先輩から
「お前は今日からゲバヲだ!」
(永易さんの風貌が、ちょっと時代おくれのゲバ持った学生運動時代のひとみたいだから)
「そして、俺の芸名を継いで、モーニング・ゲバヲだ!」
と命名されたらしい。
ゲバさんは、まあしばらく放っておいたら飽きて言わなくなるだろう、と思っていたら定着してしまい、知り合ったころにはメールも
「ゲバヲです」
と名乗ってくるぐらいだった。
先日、やはり展覧劇場出身の
山口良太さん(この10年くらいの、アイホールに関わる色々な仕事でも、山口良太氏のことを知る人は多いでしょう)に聞いたところでは、展覧劇場には、1学年おきに継承していく芸名の流派?一家?みたいのがあって、この「モーニング◯◯」も、モーニング家・モーニング亭みたいな流派だったらしい。
ちなみに坂口さんは「シャドーズ」という「(仏の名)影(架空の動物の名前)」な芸名の流派に属していたと聞いた。
現在の展覧劇場の公演情報を見ていると、今はこの伝統は途絶えている模様。
自分が坂口さんと初めて出会ったであろう1998年7月、
で初めてアイホールを訪れた、山口良太少年は、その後1999年10月 、
惑星ピスタチオ「白血球ライダー2000」
で観た坂口さんの後を追い、
2002年、展覧劇場の扉をたたくことになる。
その当時のことを題材にした、インスタレーション作品が
2022年、
「
2002 / 2022」としてアイホールのロビーにも展示されることになる。
今回の