舞台美術プランとか劇場スタッフとか、

かつては写真とかもしてきた、松本謙一郎のサイト。


今(2010年〜)はもっぱらツイッター( @thinkhand / ログ )で、ブログとしては更新してませんが。
最近は主にもろもろの告知とアーカイブ、ポータル的編集記事など。

2008年あたりは、割と色々書いてます。






























「舞台美術家になるには2」或いは「ゴトーさんのこと、フジタさんのこと、それから」

 「舞台美術家になるには」という記事を書いたことがあって、これが意外と読まれている。
舞台美術を志すひとの検索ワードになるからか?
 十数年して、今「舞台美術家になりたい」という人にはそんなに会わないが、近いことを若い人に聞かれることはある。
「どうして舞台美術し始めたんですか?」
 なぜ?どのように?やってきたのか、きっかけとプロセスを知りたいのだと思う。
それは、自分も舞台美術をやりたいというのではなくても、この先の人生・将来どうしようか?という若い人には参考として気になるのだろう。
 自分は「舞台美術をやりたい」と思って始めた、とかではなく紆余曲折・行きがかり上・気がついたら、なので長い話になるのだけど、これをかいつまんで話すことになる。
 それを、話すよりもちょっと詳しく、脱線もしながら、ときに端折りつつ、書いてみようと思う。
 それでも、やや自伝めいた、めっちゃ長い文章になりそうだ。

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 そもそもの入口は、舞台写真だった。
 もっと言うと、大学で同じ授業をとっていた友人からタダ券をもらって観に行ったのが、学生劇団・月光斜の学内公演「朝日のような夕日をつれて」だった。学生ながらラストには床が傾斜していて、そこに金替康博さんとかが立っていた。
 自分と同じ学生がつくっているとは思えない完成度、とその時は思っていたのだけど今考えると「熱量」なのかもしれない、に自分は何が出来るだろうか?何かしなければ、と思ったものだ。
 そこから少しずつ演劇を知るようになるのだけど、月光斜の向かいのBOXの写真サークルに入った自分は、月光斜をはじめ学内の学生劇団の舞台写真を撮るようになる。
 その月光斜の先輩に松田正隆さんがいて、やがて時空劇場を旗揚げし、その関係でMONO(当時はB級プラクティス)や桃園会の公演も撮るようになっていった。

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 そのころ自分は写真サークルで活動しつつ、京都市内の卒業アルバムなど製作している会社で学校写真のカメラマンとしてバイトしていた。主に修学旅行だとか運動会だとかの撮影。
(後に自分が卒業して辞めたあとに、劇団飛び道具の藤原大介さんが入って来る)
 ある日この会社の「演劇などはまったく知らない」社長に、舞台写真を撮ってるという話をしていたら、
 「それ、別に頼まれへんでも、撮りたかったら撮ったらええんちゃう?」
 「頼んでないのに撮ってもらえたら、喜ぶかもしれへんで?」
と言われた。
 まだ世間知らずで素直だったんであろう。言われるまま、ただ観に行っただけの芝居でシャッターを切ってみた。みんながスマフォ持ってるような時代じゃなかったからか、開演前に注意もなかったし。
 しかし、勿論すぐに場内係の人がやって来て止められる、という恥ずかしいことになるのだけど。

 これが自分にとっての初アイホールだった。
 1990年のこと。
 駅から劇場までは、今よりもっと遠くて広い印象だった記憶がある。

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 社長に報告したら、
 「そうかー、アカンかったかー」
と、他人事のように笑い話で、オトナもあてにならない、などと思ったのものだが。
(たぶん、鉄板焼きとかはご馳走になりつつ)
 当時は、風の旅団はもちろん、野外をやっている頃の遊劇体なんかは撮影OKだった。
 ネットやSNS時代になって、室内でも男肉 du Soleilみたいな団体・公演はある。
 2023年の野外で出会った優しい劇団も(野外に限らず)そうだった。
 今になってそう考えてみたら、社長の言っていたことも「少しだけ」は正しかったのかもしれないが。

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 ところで、この頃の写真はもちろん銀塩フィルムである。
 ゲネ・初日に撮って、そこから現像に出しても数日かかる。
 プリント代ももったいないし、現像してからカットを選び、プリントする。
 「現像〜すべてプリントの一発格安スピードプリント」では質が悪く、特に舞台写真などは満足な仕上がりにもならなかった。
 数カット試し焼きしてから、指定して再度プリントに出すなんてこともしていた。
 そんな状態なんで、公演最終日にはまだあがらない。
 それでも、打ち上げには参加する。参加したいし。
 自分だけ仕事が終わっていない、その出来もわからない状態で打ち上げに参加するのが心苦しくて、せめてバラしを手伝うようになった。手伝ううちに、学生劇団の新人よりは少しずつ色々わかって出来るようになる。
 そして、
 「これは、道具持ってないと手が出せないな。」
という段階が来て、少しずつ腰道具を揃えるようになり、カメラバックからガチ袋が出て来るという不思議な人になった。

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 卒業して最初は、大阪で(スーパーとかの)折り込みチラシ広告の会社に入った。
 とにかく写真の仕事がしたかったのだが、それは数撮らないと上手くならない・日々撮ってないと腕が落ちると当時考えていて、それなら趣味では追っつかないし、仕事にしなければと考えたのだった。
 演劇に関わっていたことや、バイトの卒業アルバムの仕事を経て、自分の仕事の結果が被写体やそれを手にする人に近いものがよいと思って、この会社に入った。演劇を通じてチラシというものに興味もあったし、日常生活に関わってるのがよかった。
 スタジオ経験や写真学科を出ていなくてもカメラマンとして採用してもらえたし。

 入社すると、この会社の撮影スタジオに毎週一日だけ来るフリーのカメラマンのゴトーさんという人がいた。
 ゴトーさんは、社員カメラマンの手に負えないような撮影が発生したときのためにスタンバイしている「用心棒」みたいな感じなのだが、折り込みチラシ広告の会社にそんな撮影はほとんどなくて、毎週ただコーヒーを飲んで雑談して帰るだけの人だった。
 自分がいた三ヶ月で撮影していたのは二回きり。
 ただ、そうもブラブラさせてられないし、新人が入ったということで、自分の教育係ということになった。
 なので、弟子入りしたわけではないけど、自分にとっては正式に師匠と言っても良いのかもしれない。
 ただ、最終的にゴトーさんが教えてくれたことは、具体的な技術は少なくて、もしかしたら色んな仕事、特に表現や創造に関わる仕事や生き方に関する「美学」みたいなものだった。
 そんなゴトーさんは、最初に言った。
 「写真家になりたいんか?カメラマンになりたいんか?写真家になりたいのなら、自分に教えられることはない。作家にはいつでも、いくつになってもなれる。創作意欲さえあれば。カメラマンになりたいなら教えられることはある。」
 そう、言われては
 「カメラマンになりたいです。」
と言わざるをえない。
 しばらく経った頃、こうも言った。
 「コマーシャル(広告写真)やりたいんか?」
 正直、自分はそこのところはっきりしていなかったのだけど、せっかくコマーシャルを生業にしているゴトーさんに問われたら「はい」と答えるしかない。
 「コマーシャルやりたいんやったら、こんなところ(会社、大阪)おったらアカン。東京行け!」
 「はい!」
 素直だったので、ゴトーさんに教えられるまま
 「次の行き先、決めてから辞めようなんてことしたらアカン。逃げ場つくらず、戻って来ないようにケンカして辞めなアカン。」
 ということで、三ヶ月で辞表たたきつけて、その後ゴトーさんが
 「こことかええで!」
と教えてくれた超一流の広告カメラマンの事務所のアシスタントに入ることが叶って上京する。

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 ところが、ここからがさらに紆余曲折。
 その事務所は一年で自分から辞めることになる。
 そもそもコマーシャルの仕事がどんなものなのか?やりたいのかもわかっていなかったのに、ちょっと仕事のレベルが高過ぎてついていけなくなった。
 その後、一年前に求職して周っていたとき知り合っていた、もっと雑な編集プロダクションのカメラマンアシスタントになり、ここからが情報量多過ぎる4年間くらいがあって割愛するのだが、その会社がなんかよくわからないことになると同時に、自分自身もフリーカメラマンなのか何なのかよくわからない感じで放り出された。

 その編プロにいた頃からわずかに個人でやっていた仕事の一つが、関西発の演劇情報雑誌 「じゃむち(Jamci)」の東京取材撮影である。
 ま、その「じゃむち」も少しギャラが上がった矢先に無期休刊してしまうのだが。
 最終号の表紙・佐々木蔵之介さんは自分が撮っている。
 直近に「12人の入りたい奴ら」を観ていたので、
 「デッビール、お願いしていいですか?」
と頼んでやってもらったカットが、黒田武志さんによって採用されている。

 「じゃむち」で一番最初の取材撮影は流山児祥さんだった。
 本番・ゲネ前日の本多劇場
 ライター別日インタビューだったので、客席で写真だけ撮ったのだが、いきなり、
 「明日、空いてないですか?ゲネの舞台写真撮るカメラマンが手配出来てなくて」
と頼まれる。
 一年で事務所辞めた直後だったし、当然空いたので請けて、それから流山児☆事務所に出入りするようになり、舞台写真やチラシ用の写真を撮るようになった。学生の頃の先輩たちの劇団を関西に撮りに帰るなどすることでも舞台写真は続けていた。

 その「じゃむち」無期休刊近い号の取材で、単身上京したガバメント・オブ・ドッグスの故林広志さんに再会する。
 再会といってもわずかの面識しかなかったけど。
 なんとなくフリーになったみたいな状況で作品を増やしたかった自分は、
 「色々、お手伝いしますよ」
と申し出て、そこから公演自体を手伝うようになる。
 いつしかそこで自分がやっていることが制作や舞台監督と呼ばれているようなものだとわかるようになった。
 舞台写真撮ってバラシ手伝ってる程度だったので、実はどんな仕事かよくわかってなかったのである。なんとなく知ってる知識で「こうしたらいいんじゃないですか?こうしといたほうがええな」をやってたら、そういうことだった。
 たくさんの舞台を見てバラシや、そのうち仕込みも手伝っていたので、なんとなく見様見真似で大道具なんかもつくり始める。
 つくり始めてみると、
 「これは我流では限界あるな」
と思ったので、イベント現場のバイトくんから始めて、そのうち、
「これは、大道具名乗って派遣会社行っても大丈夫ちゃうか?腰道具もあるし」
と転がっていく。
 そのうち、ひとから舞台監督を頼まれるようにもなるのだけど、舞台装置・美術も込みということが多く、やってみると自分が舞台監督にあまり向いていない人間で、どうも舞台美術のほうにこだわってしまうのがわかってきた。
 少しずつ美術プランの立て方も体得していった。
 毎回、新しく知ったことを試していくような感じだったと思う。
 頼む側も周りも舞台美術専門で、と言うようになり、その頃には自分の周りに「ちゃんと」舞台監督している友人や仲間も増えていったので、次第に頼まれても舞台監督はしなくなった。
 そういう「ちゃんとした」ひとたちに対して自分が「舞台監督」名乗るのは失礼に思えて。
 もちろん、この頃にはもう写真を仕事にはしていなかった。

 ただ、舞台写真を撮り続けていたことは、自分が舞台美術プランをする上で強力な基礎にはなっていると思う。
 フィルム時代だったので、ちゃんと撮れているかどうかは現像してみるまでわからない。
 現像も高いから、今のデジタルのようにはカット数も撮れない。
 そのための計算とフィードバックを重ねてシャッターを切ることは、3次元空間を2次元映像に変換する演算の千本ノックのようなものになっていたと思う。
 撮ってきた数々の舞台の空間構成や立ち位置の感覚が、自分の身体に入っていると思う。
 演出家や舞台美術家・照明家の諸先輩たちの仕事から得ているものもきっと多い。
 舞台美術プランする過程で、自分は雑で下手なスケッチしか描かないことが多いが、把握している空間の感覚は、自分が意図するところとあんまり外れたことがないように思う。

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 さて、自分の背中を押して東京に送り出してくれたゴトーさん、とはその後会っていない。
 最後に別れるときゴトーさんは、
 「続けていれば、またどっかで会うやろ。」
と去って行きかけたが、引き返して来ると、
 「まあ、それも寂しい話しか」
と、連絡先のメモを渡してくれたが、
 「これを、使うということは、わかってるな!」
と言って去って行った。

 実は、このメモを一度だけ使った。
 大阪にいる大学のサークルの同期が仕事を辞めてカメラマンになりたいと相談して来たのだ。
 まだキャリアもなく東京に居る自分では、まったく力になれないので、この連絡先に手紙を出して、ゴトーさんを紹介した。
 メモはそのまま破棄したので、連絡先は今もわからない。
 もしかしたら、あのときに自分は「写真」を手放して「演劇」を続けることになったのかもしれない。
 写真は続けていないが演劇は「続けている」自分が、
 「またどっかで会うやろ」と言ったゴトーさんに再会することはあるだろうか?

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 舞台美術をやる上で、師匠とか弟子はいないのか?と聞かれることもある。
師匠と弟子というのはお互いがそう認めて、そうなるものだから、特に弟子にしてくださいというのがあって始まったりするものだし、そういう意味では自分に師匠はいない。
 師匠がいないから弟子というのもよくわからないし、だから弟子もいない、と応える。
 ゴトーさんだけは正式に一対一の教育係として任されて、自分も師だと思っているので、ギリギリ師匠かもしれない。
 では、独学で舞台美術をするようになったのか?というと、一方的に師だと思ってる「心の師匠」はいる。
 程度は色々あるし、師匠ではなくても仲間内から学ぶこともある。
 縁あって、青年団相模大野倉庫時代の突貫屋から、六尺堂の立ち上げに関わることが出来て、たくさんの仲間もできた。
 そういうことがあって続けてきたし、続けて来られたと思う。
 その中でもっとも「心の師匠」と呼ぶべき人に、フジタさんがいる。
 フジタさんを師だと思っている人はたくさんいるはずだし、本当の愛弟子もいるから、自分にとってはあくまで「心の師匠」

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 フジタさんには、舞台監督やら舞台美術をやり始めてた頃、劇団ペテカンを通じて出会った。
 元々、ペテカンの人々とは仲良くなっていたころに、シアタートップスで続けて公演に入ることがあり、ペテカンでバラシ後廃棄するパネルをそのまま残しておいてもらい、頂戴するという話があがった。
 お互い様ではあるが、お世話になるんだからということで、ペテカンの仕込みやバラシにも、さらには勉強のためにもってことで稽古場でのタタキ(舞台装置製作)作業にも、遊び(手伝い)に行った。
 そこに、フジタさんは居た。
 2001年のことだ。
 アトリエ春風舎になる前の、元MODEアトリエ。
 フジタさんにとってペテカンの人々は教え子であり、部活の顧問というかOBのコーチが居るみたいな感じだった。
 いったい座組みにおいて、どういう肩書きにあたる人なのか、まったくわからなかった。
 タタキ作業をひとしきりフワっと仕切っては、作業が終わると嬉々として料理をして宴会の準備をしている。
 それからの数年間いくつもの公演で、フジタさんからは色々なことを一方的に学び、飲みながらたくさんの楽しい話を聞いた。
 今ではとても基本的と思えるようなことも学んだし、数々の武勇伝も聞いた。
 最初は謎の人だったフジタさんのことも、少しずつ知るようになる。
 それを面白く、一つ一つの学びについても伝わるように書き記すことは、自分にはきっと力が及ばないが。

 フジタさんと出会ってしばらくした頃、関西の舞台監督・ゲバ(永易健介)さんと飲むことがあった。
 たぶん、2004年12月28日、MONO相対的浮世絵」 バラシの後、打ち上げが(前日だったため)なかったから、バラシを手伝ったわれわれを誘ってくれたゲバさんが「終電大丈夫?」と言ったときには、すでに始発が走る時間だったときだったと記憶しているから。
 フジタさんの事を話して「知ってますか?」と尋ねると、
 「知ってるも何も!関西(の小劇場界隈)に舞台監督という概念を持ち込んだの(パイオニア)は、あの人やで!」と。
 フジタさん、とは、藤田康明さんのことである。

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 藤田さんが演劇を始めたきっかけはロックだった。
 高校に入った頃の藤田さんは、とにかく高校に入ったらロックがやりたくて軽音楽部の部室を訪ねたのだが「うちは(フォークで)そういうのはやってない」と言われる。
 それでもロックをやりたくて仕方がないフジタさんが校内を歩いていると、どこかの部屋からジューダス・プリーストが聞こえてくる。
 「ここに行けば、自分はロックが出来るんじゃないか?!」
と開いた扉の先に居たのは、上半身裸で竹刀持って踊っている、いのうえひでのりさんだったという。
 演劇部の部室だったのだ。

 その後、いのうえさんは大阪芸術大学へ進学し、藤田さんは早稲田大学へと進学し、それぞれ演劇を続ける。
 あるとき、東京で生活するフジタさんの元に、いのうえさんから連絡が入る。
 「劇団旗揚げしたから来てくれ。」
ということで、藤田さんは初期の劇団☆新感線や関西の小劇場演劇界に関わっていくことになるのだった。
 コアラさんとコンビだった人と言えば、わからない人にはまったくわからないが、わかる人には響くだろう。

 コアラ(宮田重雄)さんのことは、藤田さんからいくつもの伝説を聞かされていた。
 関西にはコンパネ(12mm厚の合板)をカッター3回で切れる舞台監督がいる!とか。
 ある時、
 藤田さんが、東京のスペース・ゼロで、どうしても色々と間に合ってない仕込みがあった。前夜、意を決した藤田さんは大阪にいるコアラさんが、もう寝ているであろう時間に電話をかけ、留守番電話に、
 「明日、朝9時、ゼロの搬入口」
とだけ残して、電話線を引き抜いて寝た。
 まだ携帯電話もメールもなかった時代。
 藤田さんは、相棒でもありライバルであるコアラさんに「どうした?!」と聞かれたり心配されるのが嫌だったのだという。
 翌朝、搬入口に行くと、、、

「ヤツは、風のように立っていたよ。」(藤田さん、談)

 その日一日、コアラさんは何事もなかったように淡々と仕事をこなし、無事仕込みは進んだらしい。
 仕込み中、コアラさんの腰道具を見た藤田さんは、
 「おう、いいナグリ(舞台用玄能)持ってるじゃないか?くれよ」
と言って、自分の手にした。
 コアラさんは、
 「予備くらい、持っとるわ」
と、応えたという。
 「その、ナグリが、今使ってるこれだよ」
と、それを前にして語ってくれたことがあった。

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 いつだったか?
 藤田さんと出会ってしばらくしてからだったと思う。
 やはり飲んでるときに何かの話の流れで、

F.W.F実行委員会テント興業「日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇
@JR京橋駅特設テント
1991年3月

 の話になった。
 藤田さんはこの公演に参加はしていなかったのだが、仕込み中に通りかかったのだという。(本当か?様子見に行ったんだと思う、、、)そうすると藤田さんを見つけた古田新太さんに、
 「ちょうどええところに、ええ人来た!」
と捕まった。
 どうやら野外テントの仕込みに苦戦中だったらしい。
 心得のある藤田さんは排水のことなど色々とアドバイスしたらしい。
 アドバイスというか
 「おい!ユンボ持って来い!」
という感じで、色々と指導したらしい。
 やはり藤田さん本人が語っていたようには面白く伝えられないのだが。
 野外テント公演で気をつけないとことなどと共に語ってくれていた。
 聞いたときに驚いた。
 この公演、当時学生の自分は観ていたのである。
 後に桃園会を旗揚げする前の深津篤史さんが出演していて、案内されたのだった。
 当時は勢いある若手、そして当時でもそうだが今振り返るとさらに豪華な出演者陣、ダイナミックな作品が今でも印象深い。
 荒々しい文字で書かれた「史上最強 南河内万歳一座」の幟がはためいていたのを覚えている。
 そんなところで藤田さんとも、ある意味すれ違っていたのだ。

 ちなみに、その後、
 2004年5月に、ウルトラマーケットで公演された

南河内万歳一座プロデュース「日本三文オペラ 疾風馬鹿力篇
の舞台監督は、ゲバ(永易健介)さんがやることになる。

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 藤田さんから聞いた、野外の武勇伝がもう一つある。
 ある時、関西製作のツアー公演の舞台監督で名古屋の野外でやった公演があったらしいのだが、そのバラシにおいて事件は起きる。
 ツアースタッフ本隊に加えて、名古屋の現地大道具もたくさん入ったバラシだったらしい。
 野外で時間もかかり皆がイライラとして荒々しくなる「嫌な空気」が流れていたらしい。
 名古屋の演劇関係者も手伝いに来ていたのだが、その中に一際おぼつかない動きの男がいた。
 イラついた藤田さん(当時、まだ血気盛んでもあったのだろう)が、
 「この!へっぴり腰!」
と、蹴りつけようかと思った刹那、
 「想さんー」
と声をかけて、佳梯かこさんが歩み寄った。
 北村想さんだったのだ。
 藤田さんは「あのとき、かこさんが声をかけていなければ、俺の演劇人生は終わっていたところだった」と述懐する。

 そんな、荒れたバラシの最中、舞台監督の藤田さんに向かって、名古屋の現地大道具さん達が乱暴にバラした何か?木材?が飛来した。藤田さんの手のひらに鋭い木片が刺さった。
 現場は、一瞬で血の気が引いた。
 現地大道具がツアー本隊の舞台監督をケガさせたとあっては事件だ。
 藤田さんはそのとき考えた。
 「ここで自分がケガということにしてしまったら、それはもう事件・事故になる。この現地さんたちとも楽しく打ち上げで酒が飲めなくなる。だが、これが大きなソゲだったらどうか?ソゲが刺さるのはケガのうちに入らない!」
 ここで騒がなければ、これはあくまで「大きなソゲ」だ。
 藤田さんは、手に力を込めてこらえ、打ち上げ中も血が流れないように片手を上げ続けて「大きなソゲ」をキープし続けたという。

 「イライラしちゃいけねえよ」という流れで出てきた話だったと思うのだけど、藤田さんが話すと、こういう逸話がゴロゴロ出てくる。

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 名古屋の野外といえば、時は流れて2023年。
 白川公園で自分は優しい劇団に出会う。
そのときの記事はここに。

 次に観た本公演「歌っておくれよ、マウンテン」も白川公園で。

 そして、
 そこからの経緯は

 ということで、
2026年1月4日、アイホールで、


を公演企画することになるわけだけど。
 公演を企画してしばらくしてから発見した。


 1990年に自分がアイホールで無許可撮影してて止められた公演の舞台監督をしていたのは藤田さんで「手に大きなソゲ」事件はこのツアーの名古屋公演@白川公園であったことを。

1990年10月
伊丹市市制50周年記念公演AI・HALLプロデュースvol.1
「砂と星のあいだに」


 「あの時、すでに出会っていたのだ。」

 あのときのアイホールとあの話の白川公園はつながっていたし、この白川公園から、このアイホールにまでもつながっているのかもしれない。
そんな感じ。

 そして今回の客席も、あの公演を思わせるように丸い。
 出来るだけ客席数をつくろうとしたら丸くなった。
 何かを演じる人に対して、観る人が集まると自然に出来る形。
 今回、当日パンフのクレジットでは「プロデュース・セノグラフィー」としてみた。
 「プロシューサー」というと、それを仕事にしたり専門にしているみたいなので、あくまで今回の「プロデュース」したに過ぎない。
 「セノグラフィー」と名乗ってよいような空間・景色がつくれそうなので、当日パンフには入れてみた。
 これが、どう「セノグラフィー≒舞台美術」なのか?ということについては、またの話にしよう。

 とても個人的なことだけど、35年くらいかけた伏線回収のようだ。



 今回の公演に関して言えば、これはエピソード0そしてエピソード6みたいなことだけど、これがエピソード1にあたるのかも。
 そして、続く?かもしれない?


優しい劇団 の大恋愛 Volume 伊丹
「なるべく終わらないカーテンコール」
2026年1月4日







坂口さんのこと、アイホールのこと、それから



1月4日の本番までに、出演者のことや、これまでのことなども記していけたらと思うのだけど、今回始めましての方も多くて全員は無理だし、それでも少しずつ出来るだけ書いてみようと思います。


坂口修一さんと、久しぶりに会ったのは、今年の3月末、
に仕込み増員で行ったときだった。
舞台美術は新しいものになっていたけど、なんと22年前につくられた、とてもしっかりした座席が発掘されて来ていた!

止まれない12人 [ 2003年〜2004年上演時、美術記録画像 ]
(JATDT 舞台美術作品データベース)

そりゃ、流石そうですよねという仕上がりのこの椅子たちは、終わって捨てるのがあまりに勿体なく。
(「返却してくれるな!」ということだったらしい。そりゃ、そうだ。残っていたのが奇跡)
仕込み日にはまだフワっと「いくらやったら売れるやろか?」「ほんまに売れるかー?」とか、話してたけど



本当に売ってみることになった。
そして、さすがにほとんど売れた!
まあ、なんらか「届けます」みたいな話してたときに「(金かからんし)リアカーで運ぶか?」とか冗談言ったりしてたら、大王が「それはもう、人力車だ!」と鋭いツッコミを入れてくれて楽しかった。

丁寧につくった舞台装置でも、捨てられるのがほとんどの運命だけど、そうして買われたり貰われたりして残るのは幸せなことだ。
自分も舞台美術プラン、装置製作するとき椅子とか日常で使われそうな物は、出演者や関係者に欲しいと貰ってもらえるような仕上がりにすることも、かなり意識的に考えている。
そして、これまでけっこう色々な人に貰われて行ったり、残されてきた。
もし、この記事を読んで「まだウチにあるよ」という人いたら、とても久しぶりな人いたら連絡ください。

さて、この現場は舞台監督のhigeさんからの発注だった。
実は、higeさんは、この企みを思いついたとき真っ先に声をかけて、押さえていた。
公演の告知は4月1日にしたかったので、3月末はその直前のタイミングだった。


その優しい劇団が1年後の1月4日に3月31日で閉館する劇場でやる公演の告知なんだから、それはもう4月1日に開始するしかないだろう、と。
ウソみたいな日に、ウソみたいなことを告知する。
出演者はまったく決まっていなかった。
尾﨑さんや劇団員の何人かは確実に出演するだろうけど。
まだこの時期には誰に、特に関西の俳優さんとか誰にお声がけするかリストアップしてる段階だった。
自分が知らない、そしてアイホールに間に合わなかった若い人にも出て欲しいので、なんらか募集の機会はつくろうとは話していた。
しかし、まだ関西では知られていない優しい劇団である。
募集するにも誰か初動で関西で名の知られた俳優さんの出演を発表しておきたかった。

そこで坂口さんである。
劇団員や若手は、朝から仕込みに参加していたが、客演である坂口さんは確か午後くらいにやってきた。
higeさんが
「そうか!この先輩たち、インパクト渡しといたらやってくれる人たちだった!」
と手渡すと、バリバリとやってくれはる。
インパクトどころか丸ノコ作業まで!
そう、坂口さんは大道具としても、めっちゃやっていた人だ。一定世代以上の男性俳優は、そこまではいかなくてもある程度何か出来たりするけど。当日の増員も、平宅さん(本若)だったりしたし。
今や絶滅危惧種ですね。道具できる(特に若手)男性俳優。

higeさんにも「誰に出てもらったらええかなー?」とか相談してたら、この公演のことも坂口さんに伝えてくれていた。
「割と良い反応だった」と聞く。
尾﨑さんにリストアップした関西の俳優、なかなか実際に観たことあるとか知ってる人が少なく絞り込みが難しかったが、坂口さんのことは知っていた。
「じゃあ、まず坂口さんあたってみましょう!」
ということになり、快諾をいただく。
お声がけするにあたり、4月の「大恋愛」に1日自分が立ち会って(それがどんな状況・プロセスなのか確認して)みてから、という段階を踏んだので、発表は6月の浅草九劇の際になった。

 

今回、お声がけするまで坂口さんとは互いに知っていても、直接連絡とるような距離感ではなかった。
いつからだろう?
例えば、2000年5月の
下北沢駅前劇場の舞台写真を自分は撮っている。
このとき、仕込みとかバラしまで手伝ったのか、打ち上げとか行ったのか何か話してどうしたのだとかは定かに覚えていない。
まあそんなにドラマチックなこととか事件はなかったんだと思う。

その後、確実に再会するのは、2005年5月
坂口修一×平林之英×末満健一 空想科學三人芝居[宇宙猿]
のとき、自分が王子小劇場のスタッフとして。
このときのことは色々と記憶にある。
当時、劇場の技術管理として仕込みバラしには立ち会っていた自分だけど、このときはいなかった。
なぜなら、自分が舞台美術プランしている現場があったため。
そして、その現場(仕込み1日目終わって、作業場に行って仮眠した翌早朝)で、間に合ってなかった装置製作作業していて、指の先を少しだけ落としてしまうケガをした。
そういうタイミングだったということもあって、余計に覚えている。

その状態で、自分のほうの初日も開いて落ち着いてから、王子にも顔を出し、坂口さんやシャトナーさんたちと飲んだ。そんなケガして飲んじゃいけないはずなんだけど、初日乾杯ではすでに飲んでたから、きっと飲んでたと思う。
確か平林さんが、夜中に「お茶を淹れる音がした」とオバケの話をしていたから、皆さん宿泊されてたはず。
自分は「見える」ほうじゃないので見たことないけど、王子は出ますよね、いますよね、と言われたことはあった。
劇場で死んだひととかいないし地下掘った(掘ったらなんか出てくる、京都や大阪城でもない)新築なんですが「人が集まる」劇場は寂しい幽霊が集まりやすいとは聞く。

ともかく、宿泊していたはずで、ロビーで遅くまで飲んだ記憶。
色々な話をしたけど、シャトナーさんから、阪神大震災時(前日にアイホールで「破壊ランナー」を上演)の話を聞いたのはよく覚えている。




打ち上げの帰り、横転した電車のドアを自力で開いて、後ろも振り向かず線路を駆け出した腹筋善之介さんの話とか、帰宅して離れのシャワーで入浴していたら、母屋が倒壊し、お兄さんが窓から「カリオストロの城」のルパンのごとく脱出したという福岡ゆみこさんの話とか。
(伝聞からの記憶によるものなので、多少の誇張あってもお許しください)



この時をきっかけに、王子小劇場とシャトナーさんとのつき合いは、その後

シャトナー研EX「辻つま山脈」2005年5月

シャトナー研EX「帰らない先輩」2005年7月

リリーエアライン「巨獣」 2006年4月

と、続くのだけど、今振り返ってみたらものすごい短期間ハイペースだ。
シャトナー研EXは、劇場主催公演として出来るだけ劇場スタッフで色々なんとかしていたので、どちらのチラシや当日パンフも自分がデザインしていた。
たくさんやり取りした末にシャトナーさんと意気投合出来たところあったのは楽しかった。
個人的にシャトナーさんとはその後、公演中止となった、

おうさか学生演劇祭プロデュース「ジャム」2021年9月

での再会果たすことなく、今に至っている。



さて、坂口さんとの再会は、その後、自分のほうで一方的に活躍を目にしたりはしていたが、2014に自分が関西に戻ってからは上演を拝見したり、時々なんかでお見かけしたりすれ違うくらいな感じ、ではっきりいつだったかは覚えていない。

最初に会ったのがいつだったのだろう?と思い出すと、このときのことはとても印象深く覚えているのだが、それはどこだったのか忘れて定かではなかった。
二人ともしっかりとは覚えていないのだけど、たぶん

MONO「その鉄塔に男たちはいるという」 1998年12月@AI・HALL

のはずなのだ。
自分の記憶の映像では、はっきりとアイホールの楽屋ではないのだけど、前後の公演で自分が舞台写真撮っていて、該当しそうな公演がこれしかない。扇町ミュージアムスクエアの楽屋や舞台裏の風景ではまったく違う。
このとき、自分は大学の先輩でもある縁でMONOの舞台写真を撮っていて(そう、自分は学生のとき学生劇団の舞台写真を撮ることから演劇に入っていったのだ)その楽屋で、舞台監督のゲバ(永易健介)さんの助手みたいな感じで坂口さんがいた。
このときは、仕込み手伝った記憶ないし、ゲネ撮影するのだから劇場入り数日目というところなので、たぶん坂口さんは仕込み増員とかじゃなくて公演通して助手的に入っていたのだと思う。
どういう流れでそういう話になっていたのかはわからないが、MONOの人たちが坂口さんに、演劇始めたきっかけみたいなことを聞いていたのだと思う。
展覧劇場に入部したときの話だった。
(あくまで、自分の記憶で記すので、きっとご本人から聞いたほうが面白いとは思う)

大学に入って演劇をしたかった(それがなぜ展覧劇場だったのかはこのとき聞いていない)坂口さんは、展覧劇場の部室の扉をたたく。
するとそこには、煙草をプハァとふかした女性の先輩がいて
「あんた、、、本気で芝居する気あるん?ちょっと考えてみたほうがええんちゃう?」
と、いきなりのパンチ。
その日は、スゴスゴと退散した坂口さんだったが
「いや、やっぱり、自分芝居したいしなー」
と思い直し、後日まだ部室を訪れる。

すると、そこにはちょうど留学生の見学を案内しているゲバさんがいた。
部室の中にはゲバさんがつくったものがそこら中に転がっているので、
「I made」
「I made」
とカタコトで繰り返している姿があった。
ゲバさんのことを知っている人なら、想像が出来るだろう光景。
ひとしきり案内を終えたゲバさんは坂口さんのほうを振り返り
「どうしたん?」
「やっぱり、入部したいんですけど」
「ああ、ほな、入って」


自分は、この話が大好きでとてもよく覚えている。
ちなみにゲバさんが、なぜ「ゲバ」さんなのかは、
ある時、永易青年が新人で集合時間に遅れていったら、先輩から
「お前は今日からゲバヲだ!」
(永易さんの風貌が、ちょっと時代おくれのゲバ持った学生運動時代のひとみたいだから)
「そして、俺の芸名を継いで、モーニング・ゲバヲだ!」
と命名されたらしい。
ゲバさんは、まあしばらく放っておいたら飽きて言わなくなるだろう、と思っていたら定着してしまい、知り合ったころにはメールも
「ゲバヲです」
と名乗ってくるぐらいだった。

先日、やはり展覧劇場出身の山口良太さん(この10年くらいの、アイホールに関わる色々な仕事でも、山口良太氏のことを知る人は多いでしょう)に聞いたところでは、展覧劇場には、1学年おきに継承していく芸名の流派?一家?みたいのがあって、この「モーニング◯◯」も、モーニング家・モーニング亭みたいな流派だったらしい。
ちなみに坂口さんは「シャドーズ」という「(仏の名)影(架空の動物の名前)」な芸名の流派に属していたと聞いた。
現在の展覧劇場の公演情報を見ていると、今はこの伝統は途絶えている模様。


自分が坂口さんと初めて出会ったであろう1998年7月、
西田シャトナー東京冒険劇団「ジャム
で初めてアイホールを訪れた、山口良太少年は、その後1999年10月 、
惑星ピスタチオ「白血球ライダー2000」
で観た坂口さんの後を追い、
2002年、展覧劇場の扉をたたくことになる。
その当時のことを題材にした、インスタレーション作品が
2002」 
2022年、
2002 / 2022」としてアイホールのロビーにも展示されることになる。


今回の
https://aihall20260104.blogspot.com/
では「2002 / 2022」で試したこと、考えたことにも再びトライしようと思っている。



これは、優しい劇団 の大恋愛 Volume 伊丹「なるべく終わらないカーテンコール
への、エピソード1〜3くらいの話になるのだろうか?
エピソード0へ続く?

最近の更新・告知

【告知】
優しい劇団の大恋愛Volume伊丹(企画・プロデュース)2026/1/4

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【更新・編集中】

非公式シリーズ(2026/1/2:一記事、追加)
劇場(設計/施工)一覧(2025/10/28:一部追加)
関西(京阪神)の劇場リスト(2025/10/28:一部修正)
アイホール非公式アーカイブ(2025/5/16:一部追加)
日本の芸術監督(など)リスト(2025/5/16:一部追加)
アイホールの件(2025/4/2:一部追記)


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優しい劇団の大恋愛 Volume 伊丹 発動

 2026年1月4日
優しい劇団の大恋愛 Volume 伊丹
という公演をすることになりました。
 というか、します。
 企画しました。


 自分が優しい劇団に出会ったのはちょうど2年前、2023年3月31日の「優しい劇団 野晒し綺麗事叫び祭り名古屋ただいま凱旋公演」
 そのときのことは、当時この記事に記していた。
 その後、いくつかの公演を配信で視たり、実際に足を運ぶことになるわけですが。

 優しい劇団はこの後、梅雨の時期に連続ドラマの野外公演を企画したり、一日で稽古して上演する「大恋愛」シリーズといった、よりストロングスタイルな活動を展開してゆき、東京では河川敷で100名近く集めたり、劇場では予約即完、こりっちまつりの審査にも残るという注目度で大躍進しているのです。

 かねてから優しい劇団には関西でも公演して欲しいということを伝えてみたり(ツイートとか)していたのだけど、なかなか具体的にどうすることも出来ずにいた。
 同時に、2021年アイホール存続活動の際に考えたことや、2022年「試作と努力、舞台美術」 を企画した際に考えたり、実際に設計者の歌一洋さんのお話をうかがったりして思っていた「アイホールの設計思想に基づいた、野外に近い野外とつながる空間の使い方」の可能性について。
 これも容易くはなく、特に具体的な何かは思いつかず時間が過ぎていた。


 そこで、一日だけ場所を押さえて行う、優しい劇団の「大恋愛」である。
 これなら可能だ!と2つがハマった。
 アイホールが閉館になるというのならその前に、その歴史に優しい劇団が1ページを残してほしいとも思った。
 閉館を前に、これまで縁のあった劇団や人々の公演は続くだろう。しかし、そこにニューカマーが居るってことが未来への希望となるのではないだろうか?
まだ終わってねーぜ!
 個人的にアイホールを1日押さえて行う企画というのは、すでに2022年の「一日でつくる舞台美術WS」でやっている。
 実は、この1日を押さえることで「試作と努力、舞台美術」の2週末またぎ展示企画が実現可能になった。
 大変だったけど、出来た。
 だから、きっと実現可能だ。


 そこで、2025年1月4日(優しい劇団の大恋愛Volume7「妄想特急王子エクスプレス 2025 〜もう会えない君に会える線!〜」)、自分の古巣である王子小劇場(2025/4/1からインディペンデントシアターoji)に駆けつけて(そもそも、行かないわけにはいかない!)優しい劇団の作/演出・尾﨑優人氏に挨拶をしたのち、連絡をしてこの企画は動きだした。
 日程はアイホールの空いている予定の中から、

 2026年1月4日。

 最初から決まっていたかのように、この日しかない!と思えた。


 名古屋に赴いて尾崎氏と打ち合わせした数時間後の帰途、早くも「構想(あらすじっぽいもの)」が送られてきた。

 「あらすじ」だけで泣けた。
そんなことは、初めてかもしれない。

 すでにとてつもない上演、作品という以上に「上演」だろう、になる予感がひしひしとしています。


詳細は、特設サイト https://aihall20260104.blogspot.com/
今後の情報更新は、優しい劇団 @yasashiigekidan も、要チェック!

(どういうわけか、この記事が検索の上位に出がちですが、公式情報は「特設サイト」のほうを、ぜひ!過去の「大恋愛」シリーズについてもまとめてあります)





セルフリノベーションWS #1(天井解体編)

昨年より、東淀川区相川で1Fを舞台装置製作作業場として稼働しつつ改装を進めてきた物件の2Fを、稽古場にセルフリノベーション(内装)する作業の一部を、体験的にスキルアップしてもらえるWSとして参加者募集します。

今回は、より高さを使える空間にするため、居室であった天井を抜いたりする作業をします。
天井を抜くのは、すでに1Fでも行っているので、まったくの初心者の方に教えられるようなこともありつつ、あくまで専門業者でもないし、解体してみないとわからないことも多いので、色々と「試して」みながら、考えながら作業するようなワークショップになります。

DIY・セルフリノベーションに興味がある方も、この場所での木工製作や稽古場利用に興味がある方も、ぜひ。

また、これに引き続き改装などにご協力いただいた方には、作業場・稽古場の有料貸し出し後の利用料優遇も考えております。
(7月初旬・稽古場貸し出しセミオープン予定)

【日時】 2026/4/13(日) 9:00〜17:00(短時間参加可能)

【場所】 阪急相川駅前 東淀川区相川2-9-15

参加費無料・若干名募集

【連絡先】 thinkinghand@gmail.com