「俺の家の話」といっても、以前やっていたドラマの話ではない。
ちょうどこのドラマが放映されていた頃、自分の母方の祖母が死去した。
そのときのことはいつか忘れないように書き残したいと思っていたのだけど、急がなくてもホントに書くべきことなんだったら、いつか書くタイミングが来るだろうとそのままにしていた。
訃報を聞いたとき駆けつけるのなら一風呂浴びといたほうがよいかな?と思って、銭湯に行った。しかし、風呂からあがったら時間ももう遅かったし必要もないので翌日にした。
そして、なんかこのことを誰かに話しておいたら忘れないかな?と思ってSNS上にいた知り合いをつかまえて話をした。だから、忘れずにいて今書けるのだと思う。
先日、「嵐のラストライブと通夜」が話題になっていたので考えた。
話の要点は、
「推し」である嵐のラストライブが実父の通夜と重なって、しかし「推し」を優先するかどうか?という議論。
そこに、兄が意を受け入れず通夜+葬儀の日程を強行したとか、さらに夫がそれをSNSに発信したとかという話。
「炎上」という議論になったのは「親族(親)の通夜(あるいは葬儀と言ってもよいかもしれない)と推し(あるいは仕事でもなんでも自分が大事にするもの)のどちらを優先するのか?」ということだったと思う。
シンプルに考えると。
そこで「個人が大事にするものを優先する派」と「従来からの儀式や家族的関係性を優先する派」が見える化した。
一番感じたのは、どちらも万人に絶対ではないにしても、兄や夫という近い関係性のひとに「推し」を優先するということをまったく理解されていなかったという不幸だ。
世の中そんなもんなのか?と、自分の身に振り返ってみたところ、自分は両親も健在で伴侶もいないのでこういう経験はないし、幸いなことに両親と自分にこういう価値観の違いがないのでまったく参考にならなかった。
「お前はどうやねん?」と問われたら、葬式や儀礼を重視しないめっちゃラディカル少数派であったのでどちら側の驚きもあまり新鮮なものではなくて、むしろ驚いているということに驚いた。
直近の自分の親族の死、それがこの母方の祖母のときだったが、そもそも通夜も葬儀すらもなかったのだ。
まったく一般論としての参考にならない。
自分は母方の実家に同居するかたちで育った。母方の家系は「普通に」なのか?少し「熱心に」なのか?昭和の日本的に信心あるほうだったと思う。家には仏壇も神棚もあるし、◯回忌もちゃんとしていた。幼少期は法事が多かったが、無邪気に親戚が集まるのが楽しかった。
祖母は仏事神事に特にこだわりある人ではなかったが、同居している祖母の叔母(であり義理の姉でもある)は仏事にも神事にも少し熱心だけどややオリジナルに解釈した偏った「しきたり」みたいなものを大事にするし、親類を戦地で亡くしているからとはいえ毎年遠路靖国神社にも通う熱心な人だった。
だからといってそれに影響されることもなく、祖母は叔母の行動につき合いつつも面倒なことはしたくない性分で、母はさらに色々なこと万事さっぱりした人だ。祖母の叔母が病床に伏すようになると徐々に、他界するとさらに色々なことは簡素化されていった。
父は寺の長男に生まれたけど継ぐこともせず、実家(寺)を訪れても仏壇に線香の一本も手を合わせることもしないくらい信心や儀礼にぞんざいな人だ。
「自分の葬式は要らない」と子供のころからずっと言われてきた。
「そもそも、釈迦だって葬儀はなかった」と言う。
信心はないけど寺に育ったので知識はあるというのが面倒くさい人だ。
「ヒマラヤに骨撒いてくれたらいい」とか言うが、それは余計に面倒くさいからせめて淀川(の近くが父にとって故郷)くらいで許してほしい。いや、それも違法だが。がんばって散骨しようとしたら映画「ビッグ・リボウスキ」みたいなことになるのを連想したが、意外なことに母はこの映画の場面を知っていて笑った。
父が寺の長男に生まれたのにも関わらず何故そうなってしまったのかはわからないのだけど、多感な10歳くらいで終戦をむかえて価値観の大転換を経験したことはいくらか関係あるんじゃなかろうか?とは思っている。不仲ではないが親への反発みたいのもあっただろうけど。
曽祖父は日露戦争において(たぶん永沼挺身隊に参加して)金鵄勲章もらったような豪傑だったのだが、父は幼少期戦時(祖父出征不在)中に影響を多大に受けて育ったものだと思われる。そこそこ普通に軍国少年でもあっただろう。自分の幼少期にも「なつメロ」として戦時中の軍歌を聴いていたりすることがあった。しかし、同時に戦後の民主主義教育を多感な時期に鮮烈に受けて育ったアンビバレンツなところもある。世代としてギリギリで60年安保を、たぶんやや距離をおいてスルーしている。
祖父は普通に徴兵されたが幹部候補生を経て野砲兵連隊の士官となり、中国から最後は南方ブーゲンビル島の死地から幸い生還している。そして戦後は、聞くところや自分の印象だと檀家や地域から慕われる、まあ人徳者の住職として人生をまっとうした。僧侶としてはあまり旧いしきたりにこだわらない進歩的な人だったらしい。
家族には怒ると激しい面もあったらしいが、治外法権的にかわいがられていた孫の自分は直面したことがなかった。
そんな祖父との記憶は家族や親類といっしょにいる中での、わずかな印象みたいなものばかりだけど一度だけ二人きりで出かけたことがある。
自分が10歳くらいのころ、なぜか一緒に伏見城に行った。たぶん祖父によるその行き先選択は、自分が歴史とくに戦国時代ものに興味を示していたからというのはあったのかもしれないが、同時に伏見桃山陵にも行った。
祖父は、無言で深々と礼をしたけど、自分にそれをしろということも、そこが何なのか力説することもなかった。それが明治天皇陵だということを再認識するのは後年だいぶしてからのことで、そのときはよくわからない広いところを歩いた記憶でしかない。
明治の終わりに生まれ、南方の壮絶であろう戦地から生きて帰った祖父が何を思っていたのかは、もう今ではわからないが、祖父も同じように何もわからず曽祖父に連れて来られたことがあったのかもしれない。
その祖父は自分が15歳のときに他界した。
さすがに信心や儀礼に否定的な父も自分を連れて葬儀に参加した。
この場合「喪主」はどうだったんだろうか?
住職を継ぐ叔父(父の弟)が「もちろん」というべきか主役な感じがしていたし、父は長男ではあるが「喪主」としてなにかしていた様子の記憶はない。どうかしたら本人すら覚えていないらしい。個人の葬儀というより、あくまで寺の住職の葬儀という面が強かったようだ。
祖父は遺言として、出来るだけ質素に樒(しきみ)はいらないと言っていたが、寺の住職なんでまったくというわけにはいかず一つだけあったのを覚えている。
住職を継ぐ叔父と本山から来た坊さん(主賓?きっと偉い)だけが色鮮やかな衣だけど、数十人の墨染めの衣の坊さん(そりゃ縁あるひとが集まるとそうなるんだろうけど)による読経がゴスペルのような迫力だったのを鮮烈に覚えている。
この経験は自分にとって舞台美術・舞台空間を捉えるうえで多大な影響になっているんじゃないかとは思う。
自分にとって親族の葬儀の記憶はこれが最後だ。
いや、同居している母方の祖母の叔母の葬儀があったはずなのだが、どういうわけかまったく記憶がない。
そのあと父方の祖母のときは、もう遠方(東京)に暮らしていた自分に対して父から「わざわざ帰って来なくてよい」と連絡があった。そのかわり病床で先が見えた頃に連絡があって面会した。
「生きてる間に会っておいたほうがよい(それに意味がある、葬式はどうでもよい)」というのが父の考え方だ。その時点でもう祖母は自分のことを認識出来ているのかわからないし意思表示も出来ない状態ではあったが。
葬儀というものの経験と記憶は、母方の祖父のときが最初でそれはまだ物心つかないころだったが、実家の6畳1間と4畳半1間をつなげた広間にして会食していた光景が記憶にある。遺産争いなんてしてないものの、映画「犬神家の一族」の印象と重なり、子供の眼から見た記憶はすごい人数と奥行きなのだけど、そんなはずはない。
この記憶から、自分にとって葬儀といえば「精進落とし」というイメージはある。
しかし父方の祖父のときに、この記憶がない。
葬儀はたくさんの坊さんが集まっていたのが盛大だったけど、身内はさっぱりして儀礼を廃していたのかもしれない。仕事として葬儀に関わっている家だから逆に身内では裏方感覚になるのかもしれない。そもそも自分だって本堂の祭壇の裏表を行き来して遊んだりしていたのだから、入口が舞台裏だった。そう考えると今、比喩でなく「裏方」の世界にいるのは自然なことのようにも思える。
母方の祖父のときは「精進落とし」だけでなく火葬場に行った記憶もある。
火葬場で骨拾いする光景。
これは後年、舞台美術する上で経験的知識として活きた。
東山青少年活動センターで行われている「演劇ビギナーズユニット」の舞台美術アドバイザーを過去5回やっているのだがその3回目、2019年の26期・劇団えだまめ「硝子のサーカス」(作・太田省吾、1976年初演)のとき。
https://higashiyamacenter.seesaa.net/article/468521649.html
「硝子のサーカス」は主人公である女性の火葬の最初と終わりの場面に挟まれて、その一生が回想されるような作品。冒頭に棺桶が運ばれ、ラストは骨拾いで終わる。
ビギナーズユニットの舞台美術アドバイザーというのは、受講生(俳優とスタッフワークの両方をやる演劇初心者である参加者)が舞台美術プランをする手助けをし、そのプランが実現できるように製作作業の指示・アドバイスするのと、受講生には難しい作業をする仕事だ。
公演直前の舞台美術(装置)製作作業は色々とギリギリで、受講生ではなく自分にアイデアから実作業まで引き受けざるをえない部分も発生するのが毎度。
このときの演出、大原渉平氏は劇中必須アイテムである棺桶や遺骨に関して「出来るだでリアルに」(演出家はよくこういうことを言う)というオーダーを出した。
棺桶は手慣れた木工だし、まあ頑張る(戯曲指定の動きや演出上、リアルといっても本物では成立しないのだが)としても、リアルな遺骨?て。受講生が他の小道具でつくっていたパーツがうまくハマりそうだったので流用しつつ、仕上げは自分の記憶やイメージだけを頼りに描画というかエイジング(汚し塗装)の要領で仕上げてみた。ググってもなかなか参考画像なんか出て来ないし、便利なAIもまだなかったし、めっちゃリアリズムではなくちょっと抽象化しつつ。そのほうが芝居全体や他の小道具にも合うので。
果たして大原氏は仕上がりに満足しつつもよりアクセントを求めた。演出補の松岡さんが見た瞬間の反応は「グロ!」舞台監督の下野さんは「ああ、おばあちゃんこんな感じやったわー」という回顧をしていたので、きっとミッションクリアしていたと思う。
大原氏の演出ではこの女性が一生を終えていく瞬間(それは上演時間そのものでもあるが)に美空ひばりの「川の流れのように」を重ねていた。特に不死鳥のイメージ。それは舞台美術と演技演出で川をイメージする部分をつくり込んだり、全体に赤を基調とすることでも反映されて、かなり作品の核になった。

余談ながら、自分が葬儀のことをまったく記憶していなかった「母方の祖母の叔母」は奇しくも美空ひばりと近い日に他界していた、らしい。
さて、ここでやっと時系列として「俺の家の話」放映時点(2021年3月)での母方の祖母の話。本題である。
母方の祖母は100歳をこえて長生きしていた。
若い頃の盲腸意外、歳をとって入院したこともない。
もちろん加齢によって衰えはするが通院するような病気もない。特に悪いところもないけど晩年は寝ていることがほとんどにはなっていた。外を出歩くこともないせいかコロナにもかからなかった。
だから、ほんとうに何の前ぶれもなく、ある日突然死んだ。
最後の言葉は「晩御飯食べる?」に対して「食べる」と応える一言だった。
しばらくすると息がなかったという。
だから、連絡は突然で父方の祖母のときのように「今のうちに会っておけ」とかなかった。
むしろコロナ禍中で会わないようにしていた。
連絡があったとき、自分は観劇中だった。
終演後、実家から着信履歴があったので返したら訃報だった。
着信を見たときには、正直祖母よりも持病で入院などがあるし、コロナだって油断できない父母のことを先に想像したくらいだった。
観ていたのは、演劇ユニットおかゆ「極楽薬」(作・演出:合田団地)@アカルスタジオ
https://akaru-project.co.jp/schedule/4037/
俳優は初心者ばかりだけど、合田さんの劇作演出によって拙さも逆手に取っていると思える作品だった。出演者という素材の活かし方がバツグンに上手い。初心者や社会人を集めたりするようなプロジェクトはもっと合田さんを起用したらよいのにと思った。
物語としては、合田作品に「あるある」な要素はいくつかあって目新しくはないのだけどそれもまたよし。
物語の主軸はみだらな色恋。そしてその果てに主人公の男女二人が「これからたぶん死ぬ」のだろうと思わせる流れで、二人並んで列車に乗っている画で終わる。たぶん偶然の産物だとは思うのだが、この二人が向いている方向がリアルな地理として「西」だった。それが西方浄土のようにも思えた。
そもそも大阪の地理、そして難波という土地を考えたときに西方浄土ということの意味は大きい。
(詳しく話すと長くなるので「大阪アースダイバー」読んでください)
なあんて深読みを観劇後に合田さんにも話して別れた。
そこに入った訃報である。
この何十分間かのドラマとそのラストになんだか祖母の死出が重なった。
21時はまわっている。実家(母方の、である。両親は祖父が他界して男手がなくなってから母方の実家に同居して、自分はそこに育った)には帰ることが出来なくはないが急いでそうする必要もなかった。
しかし、もし帰るなら身体を清める(あ、逆か?)というわけでもないが、まずは風呂には入っておこうと思った。いや、その前に本屋に寄り道して、新訳のベケット全集「ゴドーを待ちながら / エンドゲーム」(白水社)を買ったのだった。
そうして銭湯を出たらもう実家には帰れない時間だったし、SNSでつかまえた(確実にその時間に起きている)知り合いに電話したのである。
翌日、実家に帰ってみると、父の行きつけの医院紹介で葬儀屋が入って出棺・火葬までの段取りはなされていた。火葬は2日後。祖母の遺言どおり葬式も通夜もなく、出来る限り一番シンプル(安いとも言う)な「かけそば」みたいなプランになっていたが、母が骨壺だけ祖母好みそうなデザインの1ランク上(2番目に安い)を選んでいた。
葬式はなくても棺に最低限の花とか草鞋はセットになっていた。
草鞋?あ、それ必須アイテムなんだ。
副葬品として、祖母のベットから出てきた雑誌の切り抜きを入れた。フライデーに掲載された木村拓哉の記事である。
なんでキムタクやねん?!
だが、大正2年(1913年)生まれ、女学校出の文学少女だった祖母は年老いてまで割と少女趣味なところがあり、ほとんどテレビも見えなくなってるはずの最晩年でも紅白に出ているジャニーズ系は把握している様子だった。
すごい若手はともかく、嵐のことなど確実に知っていたと思う。
祖母ならば実子が通夜ではなく嵐のラストライブに行っても「推し」を理解して許したんじゃないかと思える。
「硝子のサーカス」の主人公のようなことも「極楽薬」のようなことも人生においてなかったはずだけど、晩年までその心のうちにどういうトキメキがあったのかはもはや知るすべもない。
棺と花、副葬品はあるが、葬儀はなかった。
遠方の親戚も来なかった。そもそも祖母にとっての実子である母の兄弟二人は先に他界していた。
参列したのは向かいのご近所さん数人のみ。
式のような段取りもなく、僧侶はもちろんいない。読経もなく、祖母が好んでいた「アヴェ・マリア」を流したり、やや仏教寄りなチベットの民族音楽的なのを流したりという無宗教ぶりだった。
コロナ禍で簡素化が進んでいるとはいえ、シンプル過ぎて葬儀屋もやや戸惑っているように見えた。
火葬には年老いた父母は行かず自分一人が行くことになったのだが、その際の車をどうするか相談してくれと言われていた。
葬儀屋にはタクシー手配どうしますか?言われたが、自分一人が移動するのにわざわざタクシーも勿体ないし、ちょうど実家の近くに親しい友人と言ってよいスタッフ仲間の舞台監督 higeさんが住んでいたので相談した。
「20分ほど車乗っけてくれへん?」と。
ちょうどなんとかなるタイミングだったのでお越しいただいのだが、様子見に来たついでに出棺を手伝ってもらうことなってしまった。人手なんて年老いた父母二人以外には葬儀屋さんとドライバーさんと自分しかいなかったし。なんなら、入れるときは玄関から入れられたのに出棺するには縁側の引き戸外さないと無理(想定してなかったぽいから葬儀屋の計算ミスと思われる)でバタバタしていたし。
「葬儀屋の仕事って、舞台監督に似てるよね」
などとhigeさんは言う。
「火葬場などと日時調整して、必要な物揃えて、現調して棺桶出し入れして、祭壇設営して式を滞りなく進行するように段取りして、人手配して、、、」
higeさんとは、自分が東京は王子小劇場のスタッフだった頃、関西からツアー公演しに来た悪い芝居の舞台監督だったので知り合った。飲みに行って意気投合はしたのだけど、まあ普通はなんかないとそれで終わるところ。
ところが、しばらくしてFacebookに現れたhigeさんのプロフィールを見ると、なんと自分の実家とすぐ近所だった。そして、1978年生まれの関西大学卒。つまり自分が大ファンである矢井田瞳と同期ではないか!
という2点で盛り上がって、東京に居ても帰郷するタイミングで飲みに行くような近づきになったのだった。
この関係性が生まれてなければ、自分が関西に戻って来ることもなかったかもしれない。
この火葬が始まって終わるまでの数時間、自分は火葬場で待った(このタイミングで「精進落とし」を食べる場合もあるらしい)のだが、そういう人は少ないのかちょっと珍しいような反応だった。higeさんには片道しかお願いしてないし、歩いて一度帰宅往復するには遠い。そして火葬場は近くに何もない山の上だったし。
そして奇遇にも、この待ち時間の後半はちょうど矢井田瞳がインスタライブをやっている時間だった。
そこで、もちろんライブに参加っていうか視聴した。
果たして最後の曲は何であろうか?
演劇ビギナーズユニット「硝子のサーカス」における、美空ひばり「川の流れのように」は?
「Life's like a love song」
ああー、ラストとしては定番中の定番曲だから意外性はないが、今ここでそうきたかー
祖母の「人生」とは何も関係ないはずだが、そういうめぐり合わせになるかー
今後、この曲とこの時間を忘れることはないだろう。
そして骨上げ。
「硝子のサーカス」のとき調べても出て来ないしつくるのに苦心した「リアル」
自分一人しかいないし、係の方が手順どおりやってくれるだけなので儀式感ゼロ。
骨壺は2番目に安い小さいやつなんでそんなに入らないし、手続きはすぐに終わった。
余裕で手に持てるので、もちろん山の上の火葬場から歩いて帰る。
確か、母方の祖父のときもこの火葬場だったはず。
山を下ると道は川沿いに海近くまで続く。
そうか、祖母にとっての「川の流れのよう」な川は、住吉川だったのか!
「硝子のサーカス」のときは、演出家・舞台美術担当の受講生と、この川(演出イメージだけでなく戯曲に川の場面がある)は例えば具体的にどこのなに川か?というイメージのすり合わせをしたものだった。それぞれの生まれ育ちでイメージは変わる。それぞれが個人的な経験で持っているものは表現において武器にもなる。
この地に70年は暮らした祖母の人生の中でこの川がどういうものだったのかはまったくわからないが、少なくない回数川に沿った道を上り下りしたことではあっただろう。
ちなみに1976年初演(執筆)時における「硝子のサーカス」の主人公はその時点で老婆、物語には戦時中の夫や子供も登場するので1913年生まれの祖母は世代として近かったと思われる。
「千年女優」の千代子、「風立ちぬ」の菜穂子、より少し年上になる祖母の名は須磨子。松井須磨子にあやかって命名されたらしい。
世の中には通夜のため「推し」のライブに行けなかったひともいるが、通夜も葬儀もせず火葬中に「推し」のライブに行き(インスタライブだけど)骨壺を胸に歩いて帰るひともいるのだ。
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追記:Geiminiさんが掘り当ててくれた初演情報。せっかくなので以下
「硝子のサーカス」
作・演出:太田省吾
初演:1976/5/11~30
初演劇団:転形劇場(転形劇場工房にて上演)
文学賞:1977年、第21回「新劇」岸田戯曲賞(現在の岸田国士戯曲賞)の候補作品に選出。
収録:「太田省吾劇テクスト集(全)」(早月堂書房 / 2007年)
収録:「太田省吾戯曲集」(白水社 / 1978年)
「演劇は流行ってない」
「蓮見、やめてくれ。」
でバズってる岸田戯曲賞!惜しくも逃していたのか。
集英社オンライン「流行ってないのに偉そうにするのはやめましょうよ」岸田戯曲賞同時受賞の蓮見翔×大石恵美が語った“演劇界への本音”と危機感
https://shueisha.online/articles/-/257410
【岸田國士戯曲賞受賞の裏側全て】ダウ90000蓮見が大先生になって帰ってきた!
https://youtu.be/HSzO5fI1EHU?si=rJkT2Z9hDe2VNTFf
第70回岸田國士戯曲賞授賞式
https://www.youtube.com/live/lKPkZXH3VUQ
蓮見、やめてくれ。
https://x.com/fuku_tokumei/status/2054391572599644626
【配役】
女:佐藤和代
女の兄:大杉孝(※後の、大杉漣)
夫:李三郎
子(一郎):増田再起
子(千代子):菊池京子
子(二郎):笹島博文
義母:辻上彰二
嫁:中谷実郁子
医者:品川徹
春子さん:永井利枝
チンドンヤ1~3:生沢伸行、狩野芳利、牛山君枝
駅弁売り:津田好一
お茶売り:小野たよ子
掃除人1・2:田中寿一、真砂恵津子
焼場の男1及び電報配達:瀬川哲也
焼場の男2:荒井範昭
【スタッフ】
装置:手塚俊一
制作:高野達也、仙北屋偵子、高木薫
出典:「太田省吾戯曲集」(白水社、1978年刊行)巻末の「初演データ」および戯曲本文の登場人物表